本稿は、文芸同人誌『水と空気とフェミニズム——わたし/たちが生き延びるために』(夏のカノープス編集部編、2021年)に掲載された「『わからなさ』への直面とフェミニズムにおける捉え直し——ヴァージニア・ウルフ‘The Legacy’とヤマシタトモコ『違国日記』を題材に」(眞鍋せいら)を一部修正したものです。このたび、執筆者本人により公開いたします。またWebでの公開にあたって、タイトルと本文を一部修正しています。
レベッカ・ソルニットは、著書『説教したがる男たち』のなかで、ヴァージニア・ウルフの日記の一節を引用している。「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」(‘The future is dark, which is the best thing the future can be, I think.’)。この「闇」とは、ウルフのことば通り未来についてでもあるし、ソルニットによれば、過去のぼんやりとした暗さでもある。暗闇においてひとは不安になり、「わからない」ということに恐怖を覚える。しかし、この「わからない」という感覚にこそ、ネガティブ・ケイパビリティとしてウルフの才能の一端があるとソルニットは語る。
本稿では、この「わからなさ」をわたしたちがいかにポジティブに捉えうるのか、またフェミニズムの文脈と結び付けられうるのか、女性と日記の関係を通じて考えてみたい。題材として取り上げるのは、「女性」「日記」というテーマで繋がった二つの作品、ウルフによる‘The Legacy’とヤマシタトモコによる漫画『違国日記』である。
掌編‘The Legacy’(邦題「遺産」)は、ウルフの死後、1944年にA Haunted House and Other Storiesの中の一作品として出版された。タイトルにもなっているLegacyとは、物語がはじまる六週間前に事故死した女性・アンジェラの遺品のことを指す。彼女は政治家のよき妻として、長年夫を支え続けていたが、ある日道の縁石から足を踏み外し車に轢かれてしまう。物語は、今はひとり遺された夫・ギルバートが、アンジェラの遺品を眺めながら妻の人生や死について想像を巡らす中で展開される。
アンジェラの遺品の中でとりわけ重要なのは、彼女の日記だ。日記は彼女がギルバートに遺した唯一の遺品であるとともに、ただ一つ生前彼女が夫と共有しなかったものであった。ギルバートの回想の中でも、アンジェラは日記を書いているときに夫が部屋に入ってくると、いつも日記を閉じて手で覆い、こう言う。「だめ、だめ、だめ。わたしが死んでからなら——たぶんね」
そしてアンジェラが亡くなった今、ギルバートは彼女の日記を手にする。そこにはギルバートの妻としての誇りや、自らの幸せが綴られていた。しかし最近のものになるにつれ、日記の内容は不可解なものとなってゆく。意味のない単語だけが繰り返されたり、ページ全体が線で消されたりしている。また、B.M.というイニシャルのみの男性が登場し、アンジェラが彼と緊密な関係を持っていたらしいことが綴られる。結局B.M.とは、アンジェラの友人の最近死んだ兄だったことが明かされ、ギルバートは、妻がじつは恋人を追って自死したのだと悟る。
物語はここで唐突に終わる。一見、妻の死の「真相」を夫が解き明かすミステリー的な作品に見えなくもない。アンジェラの死は、ギルバートが想像するように実はスキャンダラスなもので、それを隠すために彼女は日記を夫に見せなかったのだと結論づけることもできよう。しかし、それでも読後読者は、なにか納得できないような印象を持つ。アンジェラの死は「ほんとうに」恋人を追っての自死だったのか?そもそも、ふたりは恋人だったのか?アンジェラの「日記」——ギルバートが自分に遺されたと信じて疑わない「遺品」——は、ほんとうに彼への遺品なのか?
ここでわたしたちは、ある「わからなさ」に直面せざるを得なくなる。それは第一に、アンジェラが故人であるゆえであるし、第二に、アンジェラとギルバート、そしてわたしたちがそれぞれ別の人間であるゆえである。
死んだ人間は喋らない。もはやそこにあるのは沈黙と、困惑するしかない生者だけだ。そしてたとえ死者が、アンジェラの日記のようになにかを書き残していたとしても、彼らを完全に理解することなどできない。なぜならわたしたちは、別の人間として、書くことにすら隔てられているからだ。このように考えるとき、アンジェラの手記を当然のように「遺品」として受け取り読み解いていく、ギルバートの行いは独りよがりで傲慢な営みとしてとらえ直される。
同じように「書くこと」とりわけ「日記」を題材にした物語が、ヤマシタトモコによる漫画『違国日記』だ。中学三年生の主人公・朝は、突然の事故で両親を亡くし、母の妹である小説家の槙生とともに暮らすことになる。物語の途中では、事故死した朝の母・実里が、朝宛てに手紙ともいうべき「日記」を遺していたことが明らかになる。「朝/あなたが20歳になったときにあげようと決めて/この日記を書きはじめました」と始まる「日記」。「お母さんはあなたが大好きです」。「朝」の名前の由来とともに綴られる母からの愛のことばを、朝はいらだちとともにはねつける。「わかんないじゃん/こんなの/嘘かもしんない/わかんないじゃん/何だって書けるもん/わかんないじゃん/わかんないじゃん」
もうこの世にいない母がほんとうは何を考えていたのか。いくら朝が問うても答えてくれるひとはもういない。今は朝にとって一番身近な存在である槙生も、きっぱりと言い放つ。「もしもわたしが『お母さんはこう思ってたはずだ』とか言えば気が晴れるか知らないけど/それはできない/わからない以上決めつけてはいけないと思うし亡くなった人は弁明すらできない」
事故で両親を失うまで、比較的平凡な生活を送っていた朝は、その「わからなさ」に突然直面することになる。両親はどんなひとたちだったのか、本当に自分を愛していたのか、なぜ槙生は自分の欲しいことばをくれないのか。その様子を朝は「ぽつ——ん」「砂漠」と呼び、槙生は「孤独」と言い換える。「孤独」「砂漠」こそは、本作品中に重層低音のように響いているテーマである。朝は朝の、槙生は槙生の、実里には実里の「砂漠」があり、それぞれは侵犯することのできない「違国」なのだ。
‘The Legacy’も『違国日記』も、この「わからなさ」そして「孤独」を生と死/また書くことと読まれることを通じて描いている。この「わからなさ」と「孤独」は、それぞれの個の領域を「理解」することで侵略し、支配しようとする視線への防壁として立ちはだかる。アンジェラの感情と死を一方的に「理解」するギルバートは支配的な視線の典型例だ。それに対し、アンジェラは日記というきわめて個人的な手記を記し、それを隠すことで無意識的に対抗する。
これらどちらの作品でも、書く行為は女性たちによって担われるが、これは偶然ではない。「書くこと」とりわけ出版物と印刷が男性に占有されてきたことは、現在に至るまでフリードリヒ・キットラーをはじめ、幾人もが指摘してきた。ウルフは『自分ひとりの部屋』のなかで、女性による詩作品や自伝があまりに少ないことを述べた上で、反対に私的な領域に属する「手紙」は女性が書くことも社会的に認められていたと述べる。「手紙」と同じような、女性にとっての限られた自己表現の場を、日記が提供していたことは想像に難くない。フェミニズム運動の中で、「たとえば個人的な日記という形式が、別の回路が閉ざされた女に効果的な自己表現の手段と考えられて、重要視されることになる」とトリン・ミンハは語る。それは、他者に読まれる=一方的に解釈されることを拒否する形式を通じた、一人格としての「孤独」を確保する行為である。そこには、見る-見られるといった伝統的な男性-女性の権力関係への抵抗も試みられている。
現在は多くの女性が作家や詩人、そして出版人として活躍し、女性の自己表現は日記や手紙を書くことにとどまらない。このような、またコミュニケーションが重視される時代にあって、書くこともまたコミュニケーションの一形態であり媒体であると、わたしたちは思い込みやすい。しかし、読まれる-読むという関係には、書かれる-書くという権力関係と同じように、必ず誤読と誤解がつきまとう。
アンジェラや朝が自分のために日記を書くのに対し、実里は娘に宛てて書き、槙生は小説家として物語を紡ぐ。なんのために書くのかという理由は個々人で異なるが、共通しているのはそれが孤独な営みだということだ(「書くのはとても孤独な作業だからさ」と槙生は言う)。そして書かれたものを読む際にも、書き手と読み手が別人である限り(もしかしたら同一人物であっても)、わたしたちは「わからなさ」に直面せざるを得ない。
しかし、そのひとの孤独・あるいは「わからなさ」を認めることは、相手を別の人格として認めることでもある。’The Legacy’のギルバートを反面教師としながらウルフが描き、『違国日記』の槙生の態度が示しているのは、この切ないけれどどこまでも自由な、書くことを通じた隔たりとすれ違いなのではないだろうか。
日記という書き物は、個人にも物語が存在していることの象徴である。そしてそれが、書くという行為において無視されてきた女性たちのものであるとき、それは彼女たちの孤独と人格、そして「わからなさ」の上に成り立つ、フェミニズム的な文脈を持つものになる。‘The Legacy’、そして『違国日記』は、書くことを通じてさえいかにわたしたちが隔てられているのか、その意味でわたしたちがいかに独立した個人なのか、教えてくれている。そしてこの「わからなさ」は、ソルニットの言葉を借りれば、「希望の礎」とも呼べるものなのだ。
参考・引用文献
Woolf, Virginia. A Haunted House and Other Short Stories. The Hogarth Press Ltd, 1944, pp.121-29. (邦訳:「遺産」井伊順彦訳『英国モダニズム短編集 自分の同類を愛した男』風濤社、2014年、180-193ページ)
ウルフ、ヴァージニア『自分ひとりの部屋』片山亜紀訳 平凡社ライブラリー、2015年。
キットラー、フリードリヒ『グラモフォン・フィルム・タイプライター』石光康夫、石光輝子訳 筑摩書房、1999年。
ソルニット、レベッカ『説教したがる男たち』ハーン小路恭子訳 左右社、2018年。
トリン、ミンハ T.『女性・ネイティヴ・他者 ポストコロニアリズムとフェミニズム』竹村和子訳 岩波書店、1995年。
ヤマシタトモコ『違国日記』第1巻、祥伝社、2017年。
同『違国日記』第5巻、祥伝社、2019年。