静かな夜

sekig
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静かな時間が好きだ。

育ち方なのか、性格なのか、理由はわからないけれどそうなのだ。何かを代謝するためには、僕には孤独が必要らしい。ただ静かで、眩しくなく、暑くない、低刺激な時間をとることでしか心の代謝ができない。

そのすべてを満たすのは難しくて、それでも寂しがりだったりもするから(面倒だ)、何かに集中したり、余計なことを考えないための行為に没頭することもある。

以前、友人に「こころの陰干し」という表現をされたことがある。そのフレーズが気に入って使っている。僕の感覚では、こころの陰干しには「季節」があるらしく、なにかにはまっては抜け、また違うことをやり、それぞれへの興味がなくなるわけではないけれど、そうやって何かの幅を増やしてきた。深くはならない。その波を気にすることもなくなった。

有り余る体力はもうなくなってきたことや、心のヒダのようなものが積み重なって、そういう「こころの陰干し」と「季節」の動きがより顕著になってきている気もする。

年寄りが涙もろいのは、経験ゆえに記憶の連鎖を起こしやすくなるからと聞いたことがある。要するに、思い出す事柄が増える、引き出しとそれが開くトリガーが増える、ということらしい。

いつかどこかでも書いたけれど、僕の好きな静かさはまったくの無音ではなくて、草原の風を切る音や、遠くでコンプレッサーがうなりをあげているような、ざざ…という感触が好みだ。それが落ち着くのも、大昔の原美術館でオラファーエリアソンの展示を観てから顕在化したイメージだ。

人生は、そうやって何かと何かを結びつけながらやっていくものらしい。そうすることで、自分を編むんだろう。