梅雨の足音が聞こえる。この足音が聞こえるは迫ってくる、近づいてくるという意味の比喩だが、わたしの住む所は梅雨真っ盛りでそんな時期はとうに去ってしまった。でも今降り注ぐ雨音は道行く人々の足音のようにも聞こえる。季節が近づいてくるという比喩は傍に置いて、梅雨の足音はどんな音がするだろうか想像してみる。
地球上の水は絶えず循環しているらしい。それならずっと前に降った雨やどこか遠くの海が、あの雲に集積して今わたしの足元に打ち付ける雨となっているかもしれない。十歳のわたしが小さな折り畳み傘を握りしめて帰宅し買ってもらったばかりの本がぐっしょり濡れたときのどしゃぶりの雨、二十歳のわたしが病室の窓から眺めた夜明けの薄い光が溶ける海、非業の死を遂げた者の瞼に降った溶けない雪、すべて同じ水でないとは言い切れない。六月、。梅雨の足音はあるかないかくらいの静かな音かと思えば、乱暴に踏みしだいていくような荒っぽい音もする。権利を剥奪され、尊厳を蹂躙され、社会から排除されてきた者たちの声なき声が雨音と共にある。
水が過去と今を循環するなら、星が過去から続く光であるように今聞こえる音は過去に発した声または発せられなかった声だとしてもおかしくない。『詩と散策』では凍った川を渡ったときに封印された音が、翌年の春に川の氷が解けるにつれてその音がよみがえったという。川に永遠に失いたくないものがあって音を凍らせたのだろうかと著者は続ける。声にならない声とともに凍った音は地面を打ち付ける熾烈な雨へと、果てのない海へと循環しずっと存在している。肉体が消えた後も音は周りを漂うだろう。自然は容赦なく命を奪うが、時折り雨があたたかく感じるのは思い出したくても思い出せなくなった声が雨に溶けているからかもしれない。