何も考えずにいられたらいい、そう思う。何度も気分が沈み生きる意味も存在意義も普段以上に掴めない時間がなければ、きっと私はもう少し幸せで、普通の人間でいられただろう。
◆発達障害◆
変に仰々しく感じられたり、色んな誤解を産んでる言葉だと、私は生きている中で否が応でも感じるのが、この「特性」だ。
障害。そう聞くと取っ付き難いし、実際やりにくさを味わってきた方は多いと思う。調べてみても配慮しなければだとか、将又一緒になりたくないだなんて言われる事もある。近年自己申告(虚偽が殆どかもしれない)が増えたHSPとは違う煩わしさを定型発達の皆様は感じておられることだろう。
一口に発達障害と言っても覗いてみると多岐に渡り、それが更に誤情報を鵜呑みにさせる要因になっているように思う。大きく分ければADHD、ASD、LDの三種だが、更に深く混じり合いはっきりとした診断の付きにくいものなのは言わずと知れた話だ。
私自身はADHDとASDの双方の特徴を持っており、如何ともし難い感覚を常日頃から感じている。それを言葉で表現するのは難しく、調べてみてこういうのが苦手と記されているものであれば、大半は当てはまるのでそれを見て欲しいとしか言えない。
発達障害は簡潔に言えば「脳の機能が生まれつき偏った故に生じる障害」となる。表現が間違っているかもしれないが、少なくとも全体の機能が通常より劣るという事には変わりない。とんでもない才能と引き替えにしている場合も恐らくある。言ってしまえば得意不得意が極端なのだ。
世の中には未だ「治せる」と思ってる人もいるし、実際言われた事もそれなりにある。然しこれは生まれつきのものだ。治せると思ってる人は、生まれつき手足の欠損がある人が、治療をすれば腕や足が薬や人間の治癒能力により生えてくると言っているようなものだと言う事を自覚してほしい。そのくらい変な話をしているという事だ。そもそも病気でもないのだから、対処はすれどそういう方面の治療にいく話でもないだろう。
治せるものなら治したい。こんなへんてこな頭で生まれてしまったが故に、出来ないことをまざまざと突きつけられるのは意外と辛い事だ。何故みんなはできるのだろうと何度思ってきたことか。然しこれが発達障害のせいだと分かった時、酷く安堵したのをよく覚えている。そのくらい、理由の分からない「出来ない」状態だったのだ。
学業を問題なくこなしているのだから違うだろう。そう言われて診断を受けるまでの18年間を生きてきた。何度も診断を受けたいと訴えても、その言葉で邪魔されてきたが、あれは押し落とせなかった私の意思の弱さが招いた結果だろう。その問題なくこなす為に、どれ程辛い思いをしようとも、それを目の前のこの人は分かってくれないと諦めていたのもあるが。
私は恐らく未だ軽い方なのだろうと思いつつも、俯瞰して見れている分辛さが倍増している気もする。その場では頭が固まり動けなくても、振り返ればどれ程愚かだったのかまざまざと突きつけられ、時には指摘された瞬間いなくなってしまいたくもなった。
今日まで生きているのは偶然であり、終わらせる事を許されなかったが故の事だ。私は自分で物事を決めるのが苦手だから、結果生き続けてしまっている。終わらせる理想のやり方がとんと思い浮かばないのが幸か不幸か、それは一生分からない事だろう。
普通は、と言われる度に普通でない事に落ち込み、そうやって産まれたら自分や親、それ以外の人々も幸せだったのではないかと塞ぎ込む。親から愛されていたかさえ、未だに分からない。嫌われてはないし、色々支援してくれているから信じたいのに、定義付けられていないものを認識出来ない性分が故か、どうしても分からないのだ。
いつか私がこの世を去っても、きっと悲しむもいなければ惜しむ人もいないのだろう。人に好かれる生き方をしていない私の事だから、そんなものだと思っている。普通に産まれたら一人二人いたかもしれないが、生憎私はそうではない。その普通の私の生き方は想像もつかないし、逆も然りに違いない。
理解されずに生きていくと変なこじれ方をするものだと、ここまで書いてきたのを見直して最早感心してしまった。友人には恵まれていたが、他はそうでもなかったからだろうか。少なくとも大人にはこの方面では恵まれていなかった。
だが私にも、この脳でよかったと思う事が少しはある。それが空想力だ。いついかなる時もそれに夢中になり、ストーリーを頭で掛けめぐらせ、結果授業や人の話を聞かなかった事も多かったものの、それが今の糧となっているのは間違いない。
文字を書くより先に行っていたこの作業があったからこそ、私は文字書きとして存在している。何の取り柄もなく変えが利く人間でも、僅かながらものを残す事が出来るのだ。私が感謝しているのはここしかないが、普通の人間だったら果たして私はやっていてだろうか。否、恐らくやっていない。オタクになっていても違う道に行きそうだ。
定型発達の方はそちら特有の悩みがあり、我々には想像以上に手を焼いている事だろう。然し私達も同じヒトであり、処理能力が少々劣るだけで強みはちゃんとある事を、どうか忘れないで欲しい。可能であれば排除せず各々が活躍出来る社会になればと、殆ど不可能ではあるがそう切に願っている。