初めて大きな地震を経験した

seyca
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元旦、私は富山の実家に帰省していました。

年に数日しかない家族との時間。家に家族がいる、それだけでいつもより体温が高い気がします。

そんな風に感じていながらも、ひとりが好きな私は自分の部屋で過ごす時間が長いです。実家を出て数年経ちますが私の部屋は依然変わらぬまま。高校生の私が残した、そのままの状態です。何歳になっても実家に帰ると、この家の子供に戻れます、私にとっては嬉しいことです。

お雑煮を食べて、新年特番を見て、例年通りのお正月を過ごしていた最中に地震は起きました。

2024年1月1日16時06分。

私は自分の部屋で横になっていました。ガタガタッ、ミシミシッ「地震だ」

体感ではそろそろ揺れがおさまるころ。そう思う矢先、揺れから数秒遅れてスマホの緊急地震アラートが鳴り出し、揺れは落ち着くどころか次第に大きくなり、クローゼットから物は落下、家の軋む音が大きくなります。経験したことのない大きな揺れ「震源地はどこ、震度は?」

階段を駆け下り父、母、弟のいた1階へ。

テレビから飛び込んできたのは「津波、逃げて」の文字。父は即座に少し離れたところに住む祖母を迎えにいき、母、弟、私も直ぐに家を離れるよう急ぎました。母は金銭、弟と私はスマホだけ持って1分もせずに家をでました。

家を出るとお隣さんも車に乗り込むところでした。私の実家は海岸から1キロ弱の沿岸部です。津波警報は、一刻を争う事態です。

弟の車に乗り込み、どこいく、どこが高い、とりあえず道に出よう、慌てふためきながらスマホで速報をおい、急にやってきた命の危機に、緊張感が漂っていました。市のハザードマップで高台を探し、目的地へ急ぎます。避難を急ぐ人で、道路は混みはじめ、我先へと急ぐ車にクラクションは鳴り響きます。

私たちは1番近い高台に避難し、車から降りて人が集まるところに行きました。

海岸から直線距離2キロほどの高台。高いだけあって海岸、水平線まで見渡せます。海まで続く道は避難を急ぐ車で見たことのない渋滞でした。

とりあえず、命の危機から逃れた私は、地震速報をおいます。震源は能登、最大震度7、私たちの場所は震度5強、津波警報によると推定到達予想は3メートル。東日本大震災規模の津波がきたら......最悪の事態が脳裏をよぎります。

また揺れた、地震発生からというもの数分おきに余震がきました。

友人から連絡があったり、地元のグループラインはそれぞれの状況、避難先を共有しあいました。

地震発生から3時間経過、19時になり辺りは暗くなります。少しずつ避難先を離れる人が出てきました。まだ津波警報は解除されていません。中継では、避難を続けてください、家に戻らないでください、沿岸部に近づかないでください、繰り返し報道されていました。その一方で、津波は来ないだろうと判断されてのことか、避難先からは人が減っていきました。

帰る人を見て母も弟も帰りたがっていましたが、第二波の方が高い可能性がある、まだ安心できないからここに残りたい、私は帰ろうとする家族を必死で引き留めました。避難疲れ。たしかに、想像していたよりも耐え難いものでした。

津波警報は継続されていましたが、ひと足先に自宅に戻った父から水がでないと連絡が入ります。市内、多くの場所で断水していました。

車内に戻り、私たち家族は津波警報が解除されるのを待ちました。ガソリンの消費を控えるためエンジンを落とした車内は冷え込みます。備えがない状況では暖を取るのも一苦労でした。

日付が変わり明け方3時になって、ようやく津波警報が解除され、私たちは家に戻りました。

何年振りか私はその日、母と一緒に寝ました。家にいると余震に敏感になります。眠れない時間が続きました。

1月2日

朝6時に市内放送が流れました。断水の影響による給水場所の電報です。「こちらは氷見市です。〇〇中学校、〇〇館、、、、1人につき1つの容器に制限します」

友人と繋がるInstagramは、今ここの給水所空いています!、住所氏名〇〇と連絡が取れていません!拡散お願いします、近くの銭湯解放情報(断水の影響でお風呂に数日入れない人もいました)、ここのコンビニ空いてます!、各々にストーリーで共有しあっていました。ストーリーをスクショ→投稿を繰り返し、5.6人リポスト履歴がついてる投稿もありました。

グループラインでは、私の家は水出るようなったよ!困ったら言って、また揺れたね、皆んな大丈夫そう?、随時報告しあいました。

地震発生から数日経ち、被害の全容が見えてきました。幸いなことに、私の親族、友人に負傷者はいませんでした。私のおばさんの家は、壁が剥がれ落ちて、家の復旧はこれからのようです。

荷物をまとめ、母に駅まで送ってもらい、改札で行ってきますと言ってから新幹線に乗るまでの足取りは重たいものでした。

東京で降車して、自宅の最寄駅についてからはこれまでと変わらない生活に戻りました。

心置きなく寝れること

スーパーが開いていること

明日の予定を考えられること

帰省中に母と見に行く予定だった『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』も観に行けました

いつもと変わらない生活、いつも蔑ろにしていたことに目を向けて、今を過ごしています。

話は少し変わって

AIが騒がれている昨今、先進国が開発した優れたもの、たしかに素晴らしいです。日本に住む私たちには私たちが向き合わないといけない課題が残されていて、むしろ日本が先進的に直面しているからこそできることがあるとかどうとか。応援したい人を探すとか、いい取り組みを広めるとか、自分が直接できることは少ないけど、間接的にできることはありそう。手の届くところからやっていきたいです。

いろんな流派、やり方があって、みんな自分が得意なことをしているだけのようにも思います。

思いもよらない事が起きていますが、2024年、自分にできることに目を向ける1年にしたいと思います。

被災地域の皆様が1日も早く穏やかに過ごせる日が来ますように。