図書館で10冊本を借りて、一切読まずに返却した。
昔は全部読んで返していた。
今はインターネットの文章を読んでばかりで、なかなか本を開けない。
読書が好きです、と自己紹介でよく喋るが、いつからいつまで読書が好きだったんだろうか。もはや今は読書という言葉に執着していると言っても過言ではない。
小学校の頃、たくさん本を読んでいて偉いと褒められたことがずっと続いている。優しいね、可愛いね。褒められた言葉が一つの足枷になっている。気づいていないだけで、振る舞いに悪影響を及ぼしている過去の出来事はまだたくさんありそうだ。
文章を書くのは、多分本当に好きだと思う。あまり苦も無く文章量を生産できるが、実際人に読んでもらうことを考えると辛くなる。人との関わりに文章はいらないと思うが、自分には文章が必要なんだろう。文章は残り、誰でも見返すことができ、非常に一方的だ。自分の振る舞いに自信がないから、一方的なコミュニケーションに対しての不安が根強い。文章は残り、自分の自我を保証してくれる。文章が好きという中でも、これが両立することには最近気づいた。中学の頃の文芸部は、誰かに読ませるために書くものだったから、しんどくて続けられなかった。
歳をとっていくごとに、やめられないものが増えていくのを感じている。SNSやソーシャルゲームも含め、習慣が染み付いて、なかなか変えられない。まだ世間一般的には若い方であるはずだが、若さを生かすような振る舞いをすることは自分にとって難しく、歳をとっている実感だけが日に日に増していく。
ただまぁ、10歳の頃、タイムカプセルに入れる手紙の内容が書けなくて泣いていた自分からしたら、十分良い人生だ。友達にも恵まれた。家族にも恵まれている。父親との関係性はあまり良いとは言い難いが、そもそも血が繋がっていない上に男の親族だから仕方なかろう。もし俺が父親の立場だったとしても、非常に複雑な心境だ。いずれ仲直りというか、適当な雑談くらいはできるようになっているだろう。死に別れたってそれは仕方のないことだ。
最近はTwitterに文章を投稿するのが辛くなっていて、短い文章に趣を感じなくなっているのが一番大きそうだ。おれは長い文章を書きたいから、こんな文章を書いている。ネットに投稿した文章は拡散するが、誰がみるわけでもないし、これが拡散されたからといって特段問題があるわけでもなさそうだ。非常に不安だけど。
歳をとって変えられないものが増えていくことを、アイデンティティと呼ぶべきか、しがらみと呼ぶべきかは、まだわからない。自分にとって好ましい生き方と社会にとって好ましい生き方の区別もついていないのだから、まずはそこからなのだろう。
それでも、執着している過去のように生きたいというのは、随分と自然な気もする。原点回帰とかいうやつだ。
働くとどうやら本を二週間で10冊読むのは随分厳しいようだけど、そんな生き方をしたいと思うし、感想をちゃんと書きたいと思う。誰かに思想を話さなくては、どんどん自分がなくなっていくように感じてしまう。これはつい最近気づいたことで、こう思うと執着ばかりではないかもしれない。
色々考えが浮かんで、泡のように消えていくことばかりだ。
正しく自分を認識するというのは到底できないので、自分についてもっと考える時間を作っていきたい。好きだったものが、今でも好きなのか、執着なのか、ちゃんと言葉にして、考えようと思う。