時間が巡る、進む、戻らない…。
どんどんと時間が進んで、いつの間にやら大人になった。祖父は亡くなり、祖母も記憶が曖昧になり、友人もいつの間にか大きくなった。
同年齢の人間を見て思うことが一つある。それは、発達がそもそも全く違うということである。ここでいう発達というのは、心の成長とか、自己統制とか、視野の広さとか、そういうものである。
別にもう今更なんという話ではない、本当にどうでも良い話である。
ただ、同年代の振る舞いを比べられ、優劣をつけられる社会の仕組みには傷ついて来たのだと理解した。これからも、若い心の成長が早かった人間を優先される仕組みに組み込まれ、被差別側の部類であると考えると、なんだか辟易する。
最近考えていることとして、自分の暮らしの豊かさ、友人に使えるコストは、その発達の速さによって変わってくるらしい。圧倒的成長なんてものはなくて、一つ一つの経験を咀嚼して自己理解をしようと思っているのに、資本主義的な価値観だとそうはいかないということは、なんだか少し辛い。
このまま存在して良いのだという感覚が自己肯定だとするのであれば、今は過去よりもたくさん自分を肯定できているんだと思う。ただ、時間が積み重なるにつれて、自分の限界がどこにあるのか、ゴールがどこなのかが明確になると、飽きと空虚さに襲われそうだ。
資本主義の土俵では戦いたくないし、私の心の発達が遅すぎるし、いつになったら大人になるかすらわからない。
でも時間は回り、親は死に、いずれ自分も死ぬのだと思うと、焦りを助長する社会の仕組みも致し方ないと思う。
それでも、自分のために時間をたくさん使うのが自分のために必ず必要なんだと思うことにしている。非生産的なことだけれど。
発達が遅い分、自分に向き合わなくては、秒針がどんどんと遅れていく気がするから。
(未完)