東京。

詩歩
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来月から二拠点生活を始めることにした。カーテンの間から、誰かの生活が揺れて見えるこの家が好き。

移動すると元気になる性分なので、この生活は向いている。むしろ、二拠点というより、ちらほら足を運ぶ海外を含めると多拠点のような気もする。絶対に修論を書く時期の院生の生活ではない。

何はともあれ、結局、決めの問題なんだなと思った。

あと、和歌山をホーム、東京を出張先だと思うと、しんどくなっちゃうので、心のなかでは、東京から和歌山出張をしていることにする。

なんだろうな、このしんどさ。でも、一応、和歌山芸人(概念)として活動している手前、あまり声を大にしては言えない。

ただ、地方で起業している友人たちは、少なからず、似たような感傷を抱いているように思う。

地方がいいなんて言うのは、東京の人間のイメージする博多とか、がっつり山の奥、海沿いのテラスハウスみたいな土地の話であって、ブックオフとファミマとドラッグストアがコピペされたような微妙な規模の地域のことではない。ちなみに、このような土地に住むと、地味に金がかかる。車が必須だし、それなりに消費活動をしないと生きていけないから。

とはいえ、少なからず、関空が近いのは、かなり恵まれている。ちなみに、わたしはいつも「medical」と書かれたケースに保険証と一緒にパスポートを突っ込んで持ち歩いている。本当に空港を使うのも、海外に行くのも年に数回だけど、いつでも、どこかに行けるという状態が、わたしにとって、強いお守りになっている。

東京の家も空港まで1本でアクセスできる。

ちいかわに似ているパートナーは、今日からサウジアラビアに飛び立った。先週北京から帰ってきたと思ったら、今週はリヤド。コーヒーを飲みに行った。リヤドというカフェに行ったのかと思い違うくらい。

毎日、一緒にGoogle mapsを眺めながら、意外と地球小さいねという話をした。とはいえ、お互い、自分探しバックパッカーみたいなタイプではないので、この粒度の人と一緒にいるのはとても不思議な気持ち。旅好き界隈とは縁がない。

まさか、自分が人生で二人暮らしをすることになるとは思わなかった。一緒に生活をしていると、定型発達の人ってこんな感じなのかと毎日驚きを隠せない。夜中にアイディアがいっぱいで眠れなくならないし、作業中に何度も立ち上がったり歌いたくなったりしない。

そんな風にだらだら日記を書いてる今も、バスに揺られて西に向かっている。(帰っているのではない、向かっているのだ。)夜行バスより、昼間のバスの方が、ちょっと楽しい。

今月は、決算のせいで、頭の中にずっと通帳の絵が浮かぶ。お金、難しいなあ。無頓着すぎて、どんぶり勘定人生なので、この時期は数字に殴られている。よく、院生しながら、こんだけ売上立ててきたよなあと振り返る三年間。とはいえ、何度も口座の残高に胃をキリキリ締め付けられる日も少なくない。今年は、クライアントワークを減らして、プロダクトとワークショップ作り、その営業的なのをちゃんとやりたいなという気持ちがある。追加融資とか受けた方が気持ちも楽かなと思うものの、絶対無駄遣いしてしまうので、しばらくは無し。このままの売上で研究と並行し続けるのかな。さすがにもっと売上伸ばしたいな。やるマッチョ気質なので。日本にずっといるのかな。結婚とか出産とかするのかな。結局、数ヶ月前までは、こんな風に二拠点生活になるなんて想像もしていなかったし、毎回なるようにしかならないんだけど。

移動すると、言葉が捗るな。立ち上がってくる。

吉岡剛造の『詩とは何か』を読んだ。名は体を表しすぎていて驚いた。ジミヘンと内蔵言語の話がおもしろすぎて、さいきん、ずっとジミヘンを聴いている。

こういう内蔵言語とジミヘンとか、バタイユの話は、パートナーとはしない。内蔵?言語?ってなる。困っちゃう。多分。とにかく優しい。バックグラウンドもおもしろい。好きなものもすごい確率で似てる。ふたりとも左利き。同性でも親友になれてただろうなと思う。ちょっとつよめのフェミニストのわたしでもぜんぜん問題ない。

ただ、人のなかから漏れ出る何かとか、カントっぽいもどかしさとか、そういうのは全力で話しても伝わらない。なんでなのかよく分からないけど、そこはもう根底に流れる人間観の違いというのだろうか。汚いものへの寛容と美しさへの執着みたいなバランス。わたしは人間をどこか汚いものだと思っているんだろうな。お互い人間は好きだが、好きな理由がちょっと違う。わたしは、基本的に人間は汚いものだから好きなのだ。彼は、優しい世界で生きている。ずっとそのままであってほしい。しあわせに生きてほしい。

こういう人間観を共有できないことに我慢しているとは思わない。しかし、わたしは、きっと、隠れてたまに煙草を吸うだろう。嘘は醜いがあまりにも美しすぎる。