イギリスのブランドに共感を覚えている。「うんうんわかる、やっぱ“反骨“だよね、けど“伝統”にも抗えないよね、わかる〜!」という具合だ。
雑に「イギリスのブランド」と表現したが、内訳はVivienne Westwood、Alexander McQueen、現在のダニエル・リー体制のBurberry、と読み換えてほしい。特にVivienne WestwoodとAlexander McQueenに関しては、スコットランドとイングランドの歴史的・文化的な確執がブランドに関係していることは理解しているが、今回はあくまで私の中での印象、観念的な私個人の物語として読んでほしい。Paul Smithについては中盤で述べる。
Vivienne WestwoodとAlexander McQueenは共に私が好感を抱いているブランドで、私の中での両者の共通点は「伝統と反骨」だ。Vivienne Westwoodのオーブロゴは「伝統と未来の結合」を示しているというし、Alexander McQueenは“相反する2つの要素「強さと脆さ」「光と闇」「革新と伝統」は隣り合わせにあるという発想のもと、強い個性、時に破壊的な強さ、形式的なものからの反発の中にもエレガンスを表現”と説明されている。いずれも過激な表現を特徴とするが、シルエットやボディラインの「美しさ」はクラシカル、ネガティブな言い方をすれば「前時代的」なブランドだと思う(好きです)。
これまた雑な私感だが、イギリスという国は私の中で「保守的で強権的な親」のイメージだ。
私は美術・アートが好きなのだが、最初に好きになった画家はオーブリー・ビアズリーだった。19世紀末、性的なものへの抑圧が厳しいヴィクトリア朝に生まれ、それを嘲笑うかのように、セクシャルでグロテスクなモチーフを作品に描き込んだ。それでも彼の作風は「耽美主義」に分類される。描かれるものが猥雑なのに、彼の作品が100年以上経っても愛好されるのは、それらが古典的な美意識を持つ絵柄の上に成り立っているからだろう。
学生時代の私はVivienne Westwoodに惹かれ、ライセンス品の財布を使ったりしていた。田舎者なので、ショップに行ってお洋服を買うという発想はなかったが、森アーツセンターギャラリーで開催された「ヴィヴィアン・ウエストウッド展」には足を運んだ。パンクファッションに関する展示よりも、ヒール靴を履くことで全身のラインが美しくなるという彼女の持論が印象に残っている。
振り返ってみれば、イギリスの文化・芸術作品の中でも、「保守的で強権的な親に育てられたが故に反骨精神を抱き、それでも親の面影を自分の内に認めざるを得ない子ども」のような印象を受けるものに魅力を感じてきた。
何のことはない、その「子ども」は私なのだ。保守的で抑圧的な両親に育てられ、それに歯向かいたいが、自分が両親の価値観や美意識を内面化していることから逃れられない。自分の似姿を、イギリスの文化・芸術作品に見出している。自分と似たことを、国・歴史相手にやっているブランドに、共感を抱き、勇気をもらっている。
Paul Smithもイギリスのブランドだが、コンセプトは「ひねりのあるクラシック」とのことで、「伝統」との関わり方において軽やかさを感じる。あくまでも私の印象だが、「親と仲が良い、育ちの良いご子息」というイメージだ。この「可愛さ」や「品の良さ」が同ブランドの魅力、ファンを惹きつける所以なのだろうが、私は実のところ、「可愛いなぁ」と思うだけで、あまり食指が動かない。「親御さんとの関係が良好で羨ましおすなぁ」という気持ちが先に来てしまう。(もちろんこれは私の場合の話で、だからこそPaul Smithに惹かれるケースもあるだろう。)
Burberryは「イギリスのブランド」の中でもかなり「伝統」「保守」を前面に出したブランド、「保守的で強権的な親」の特徴を強く受け継ぎ、かつそれを誇りに思っている名家の息子という印象で、私の人生からかなり遠いところにあるブランドだと思っていた。
が、2023秋冬から就任したチーフ・クリエイティブ・オフィサー、ダニエル・リーのコレクションにその印象を覆された。チェック柄や馬のモチーフなど、ブランドの伝統的なアイコンを、前衛的に再解釈している。Burberryの馬上の騎士が掲げるバナー「Prosum」はラテン語で「前進」を示すそうで、まさにそれを地で行っていることに舌を巻く。
店頭に並ぶアイテムは私好みのものが多く、秋口からこっち、店舗に足を運ばせてもらっている。「なぁんだ、Burberryくんも親御さんの言いなりになってばかりじゃないんだね!」という気分だ。
評論家の間での評価や、以前のBurberryを愛してきた店舗スタッフの反応は芳しくない様子だが、そういった反応を受けているところも含めて「おっ、“反骨”やっているね!」と、好感を覚えている。
それでも、それを「Burberry」の枠組みの中でやっているのが面白いと感じる。トレンチコートやチェック柄のストール(マフラー)などのアイコニックな商品も、引き続きリリースしている。「やることはやっているよ」といなしているようにも見える。私からすれば、「親」とのそんな共存の仕方、親の意に沿わない事柄を行いつつも一つ屋根の下で同居するような在り方があるのだなぁ、と感心してしまう。
私もある程度「いい歳」になって落ち着いてきて、そういった「親」との関わり方に魅力を感じられるようになったというのもあるのかもしれない。出逢うタイミングが良かった。
余談になるが、不思議なことにダニエル・リーによるBurberryのコレクションには、私が学生時代に好んで身に付けていたファッションアイテムに共通する要素が多く、「ダニエル・リー、なんで私のことこんなに知ってるんだろ……」と勝手に自意識過剰になっている。「親」との関わり方だけでなく、そういった点においても、人生に寄り添ってもらいたいコレクションだと感じるので、いつか何かを手元に置きたいと考えている。余談終わり。
面白いことに、英語のtradition「伝統」とtreason「反逆、背信」は語源が同じらしい。どちらもラテン語traditio「伝承、裏切り」が元で、traditioはtrado「引き渡す、託す」という動詞から派生した名詞、とのことだ。ソースは「ラテン語さん」のツイート(Xの投稿)。
現実の私個人は、親との関係も特に険悪ということはなく、世間一般で見ればそこそこ仲の良い親子、というところだと思う。住まいが物理的に離れていることも緩衝材になっている(長野県と名古屋)。それでも、「いい歳」になってもなお、親への感情のわだかまりは解消していない。生涯掛けて向き合っていく「課題」なのだろう。イギリスのブランドとそのコンセプト、言葉とお洋服が力になってくれる。「課題」は私独りだけのものだが、道は孤独ではない。