映画『オッペンハイマー』を観た。
本当にアメリカでは原爆を使って戦争が終わることで日米の戦死者が減り、かつ二度と戦争が起きなくなると本気で信じていたんだと、考えの違いを実感した。実際には核の量産が進んで冷戦になるのだけど。それを連鎖反応になぞらえたり、ある人物がオッペンハイマーに「君が作っているものは新兵器ではなく新世界だ」と言ったりして、表現としてもうまいなあと思った。
この映画、オッペンハイマーが狭い部屋で取り調べのような扱いを受ける聴聞会から始まり、もう一つモノクロで誰かが質疑応答を受けている公聴会の様子が混ざり、そしてメインとなる原爆開発の1940年代の物語と、合計3つのシーンが入り混じっていて、素直に言うと「わかりにくい」構造になっている。
ここで別のお話へ。
僕は東京工業大学の生命理工学院の非常勤講師として、大学院生向けに文章の書き方について講義をしている。講義の最初に、こんな話をする。
「文章には、作家が書くものと、作家以外が書くものとある。作家が書くものは芸術作品であり、わかりにくさも許容され、多様な解釈が可能である。一方、作家以外が書くもの、特にビジネスシーンでは、わかりやすいこと、一義に読まれることが要求される」
映画『オッペンハイマー』はクリストファー・ノーランが脚本を書いた芸術作品であり、だからこそわかりにくい構造も許容される。もちろん、クリストファー・ノーランは、3つのシーンが入り混じるとわかりにくくなることを理解していて、わざとわかりにくい構造にしたはず。おそらく、3時間という長丁場で中だるみしないよう、緊張感をもたせるために複雑にシーン切り替えをしているんだと思う。
わかりにくい構造にするからこそ、わかること、そして受け手が考える余地があるのだ。