「」歌詞
翻訳の順番でかきます。
「うなぎが食べたい うなぎが食べたい 死んでも食べたい生まれ変わってももいちどたべたい」
うなぎが食べたいんですね。
「夜しか会えない本当は会いたい」
うなぎは高いから晩ご飯でしか食べられないけどほんとうはお昼にでも朝にでも食べたいよね。
間奏。(けっこう長い)この長さは詩に出てくる物語とリンクしています。その理由は次
「そろそろテレビを買いに行こう 伸びすぎた髪を切りに行こう そしてうなぎを食べよう」
そろそろという言葉がつかわれています。つまり何かが起こってから時間が経っていることがわかります。
また伸びすぎた髪というワードも時間経過を表すのに最適なワードでしょう。髪が伸びすぎるほど時間が経過していることがわかります。
「お酒は飲まんよ タバコもやめるよ 忘れず花も買ってくるよ」
飲まんよ,やめるよと話し言葉がつかわれています。だれかに話かけているのでしょう。しかしながら返事はありません。花を買っています。ここではなんの花を買っているのか誰に買っているかが具体的に説明されていません。(だいたい察しはつきましたが…)
「愛していますと誰もが言い合う言葉が虚しいああこわい」
「死んでもいいとか月が綺麗とかすこしだまっていろ」
愛しています,死んでもいい,月が綺麗(いわゆる好きという表現,告白という意味で捉えます。)、多くの人が生きているうちに使う言葉ではないでしょうか。その言葉が虚しいそしてこわいと語っています。おそらく本人も使っていた言葉であろうものが恐怖に感じるほどの体験をしたのでしょう。
「今度うなぎを食べに行こう 今度うなぎを食べに行こう 忘れられない東京うなぎ」
今度,行こうとまた話し言葉が使われていますね。
「楽しすぎるぜ ひとりぼっち」
ここでひとりぼっちであることが確定します。今までの詩から見ると途中からひとりぼっちになった、つまり誰かが亡くなったということが推察されます。
そして詩の「夜しか会えない 本当は会いたい」はうなぎのことを示しているのではなく亡くなったひと(霊は夜にでるというイメージが日本でありますよね)に対して会いたいと言っているのだとわかります。
また、テレビを買うまでに時間がかかった理由や髭が伸びていた理由もおそらく亡くなったことによるショックからぼーっとしている時間がふえたことを表しているのでしょう。
「歩いてみようか春の夜ひと駅ふた駅どこへでも行けるね」
おそらくこれはひとりごと
「陽気な歌を歌っていく 悲しい声で歌っていく」
陽気という元気な言葉がありましたがついに本音がでました。(後書き:ほんとは会いたいと言っているところですでに本音が出てましたね。)悲しいということがわかりました。そりゃ亡くなったのですから悲しいです。
「最後のバスにあなたが乗る冷たい木枯らしピューとふく ほほえみながらとは言わんけどさよならくらいいえよ」
最後のバス=お盆のいわゆる16日の送り火のこと
だと思う。ここがちょっとわかりません。
なぜかお盆と冷たい木枯らし(秋から冬にかけて吹く風)が被ってあります。苦しい考察ですがお盆で送り出してから冬になるまで間がないほど一瞬の時が過ぎてしまったことを表していると考えます。
「見えなくなるほど遠ざかる僕のポケットの小銭がちんとなる 僕のポケットの小銭がちーんとなる」
遠ざかる=成仏
小銭がチャリーンではなくチーンとなるのは「りん」(仏壇で手を合わせる時に使われる仏具)の音を表していると予想しています。
「愛していますと誰もが言い合う言葉が虚しいああこわい」
「死んでもいいとか月が綺麗とかすこしだまっていろ」
今度うなぎを食べに行こう 今度うなぎを食べに行こう 忘れられない東京うなぎ」
タンタラッタンターンタンターラタラタッターン
あらためて冒頭のうなぎが食べたいという詩の主語について考えてみるとこれは亡くなった方が主語になっていると考えられます。
理由としては「死んでも食べたい」という言葉が使われているからです。この「死んでも食べたい」は比喩表現で日常的に使われますがこの詩では文字どうりの意味で使われています。実際に死んだけど私は死んでもうなぎが食べたい欲があるということでしょう。
そして「そろそろテレビを〜」以降からは亡くした人が主語になっていますね。
詩の道中で主語が変わるのもおもしろいですね。
というわけで工藤祐次郎さんで東京うなぎを翻訳してみました。