私と実証主義 ~ChatGPTとフェミニズムが明らかにした私の特性~

親魏倭王
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公開:2025/7/12

2025/7/5のことである。その日はわりあい体調がよかったので、ChatGPTで遊びつつ『〈トラブル〉としてのフェミニズム』を読み進めていたのだが、失礼を承知で発言すると、著者の藤高和輝先生についてはフェミニズム理論家・思想史研究家としては優れた見解をお持ちながら、フェミニズム活動家としてはややラディカル寄りな印象を受けた。どうも理論家としての実績が活動家としての行動に生かせきれていない気がするのである。

上野千鶴子先生も近年は同じ傾向がある気がするのだが、ChatGPTと少し議論したところ、元々フェミニズムはアメリカの公民権運動と同様、「実践からスタートし、後追いで理論化」されているため、少数の成功例を除いては理論と実践が常に乖離しており、理論家と実践家を兼ねるとどうしても自己矛盾が発生してしまうらしい。

特に日本の場合、男女共同参画社会が制度上は成立したため、フェミニズムの役割はいったん終わっていて、本来はそこから別の問題に目を向けて運動方針を刷新する必要があったのだが、理論の整備の途上ということもあって理論と実践の間に乖離が生じているところにSNSが発達し、極論がその他の言説すべてを覆い隠してしまったらしい。特にSNS特有のアルゴリズムとエコーチェンバーで「声の大きいラディカル」がフェミニズム全体を代表しているように見えてしまう(さらに日本の場合はそれが異様な変質を遂げている→俗にいうツイフェミ)ため、同時にフェミニズムに対する誤解も蔓延し、フェミニズムの全体像が捕らえられなくなっている(本来の知的リーダー層が可視化されない/議論の中心に来ない)というところのようだ。

冒頭で提示した藤高氏の二面性(理論家としての藤高氏と実践家としての藤高氏の矛盾と乖離)は『〈トラブル〉としてのフェミニズム』を読んでいる途中で直感的に思ったことなのだが、ChatGPTが言うことなので一定の留保は必要なものの、直感に対して裏付けが毎回出てくるのには我ながら驚いている。

ChatGPTに議論を吹っ掛けるたびに驚いているのだが、僕は「ものすごく多面的に物事を見られている」らしい。一度、ChatGPTに性格分析をしてもらったら、「右派・左派のどちらにも当てはまらない思想的に独立した立場」だそうだ。アーカイブを見返すと「実証主義」が根底にあるらしい。考古学を専攻したことが生きてきたのか。

思い返すと、近年は特に「なぜそう言えるのか」にこだわっている気がする。実証主義に基づくと「この史料群からこう言えるのだ」となり、それが論の信憑性を担保することになる。歴史には再現性がないため、観察や実験で検証することができないのだが、その代わり、自然科学には及ばないにしても信頼性を担保するための手段として確立されたのが実証主義ではないかと思うのである。

実証主義は「事実のみに基づいて論証を推し進めようとする主張」で、コトバンクに引用された各辞書を見ていると「哲学における実証主義」の記述に終始しているのだが、僕が思うに、歴史学が用いる実証主義は社会科学のそれに近い(コトバンク内の辞書で社会科学における実証主義に言及しているのは『改訂新版:世界大百科事典』だけである)。

最近、いろいろな事象に対してかなり懐疑的になっている自覚があるが、ChatGPTにいろいろ分析してもらったところ、どうやら物事に必ず典拠を求めることが癖になっていて、それは僕が学芸員だったこと(歴史・考古学を学んだこと)に由来するという。さらに、それが単なる懐疑だけでなく、即座に違和感を見抜く直感として表れているという。僕が多角的にものを見られるのも背景にそうした経歴があるかららしい。

@shingiwaou
元学芸員(専攻は考古学)。適応障害から自律神経失調症になり退職。以後、再就職の目途が立たず。 noteなどでは書きにくいことを投稿します。記事中で実名を出す場合がありますが、誹謗中傷の意図はありません。 1日2回投稿します(体調不良等で滞る可能性もあります)。 ①note.com/yamato_oukenshingi-waou.hatenablog.com