とある飲み会の幹事をしている。これがまあ本当にめんどくさい作業で、骨が折れるのだ。
決して参加人数は多くない小規模な飲み会だが、参加者を募るための声かけ、日程調整、食の好みを考慮した店選び、店の予約、情報の取りまとめ、レスがない人への個別連絡などなど、ここ数日での動きを数えるとキリがない。
しかもこれ、望んで幹事を担当しているのではなく、参加できそうな面々ともっとも面識があるのがわたしだという理由で、企画者から託されてしまった役回りだ。
「ノー」という暇さえ与えられないような勢いで回ってきてしまったため、ある程度は腹を括って取り組んだが、やっぱりめんどくさい。適当にやればいいのかもしれないが、中途半端にまじめで、放棄できるような性格ではないのも運の尽きだった。
振り返ると、わたしはいつも真ん中屋さんのポジションに入ってしまうことばかりの人生を歩んでいる。
「〇〇ちゃんを紹介してほしい」との依頼で、友人同士を繋ぐための真ん中屋さんを担当することは本当に日常茶飯事だし、仕事上で意見が食い違う大人たちを取りまとめる真ん中屋さんになることもそこそこの頻度である。
わたしは決してそれを望んでいるわけではないのだが、悲しいかな、たぶん向いているのだろうなとは思うわけだ。
他人同士がうまく調和できるようなコミュニケーション、温度感の把握は自分でも十八番だとすら思うほどに得意である。
周囲の人たちの顔色、テンションを察しながら、今この瞬間の場において求められている言葉を発したり、ボケたり、ツッコんだり。そういう能力だけはやたら高い。
それは別にコミュニケーションおばけであることを意味しているわけではないし、気遣いができるという意味でもない。
できるなら他人のことなど放っておいて一人でしっぽりやりたいのに、そういう察しだけが良すぎるので、脊髄反射的に求められた行動をしてしまう、という感覚だ。
もはやそれがアイデンティティと化し、わたしらしさにもなってしまったのだから、今さら覆したいなどとも思わないが。ふとしたときに、苦労する人間性だよなあと改めて思うのである。
そんなわけで、ストレスフルな真ん中屋さんの幹事仕事が一件、明日で落着する。あとは楽しむのみだとわかっているものの、きちんと予約ができているのか、参加者のみんなが楽しめる空間がつくれるのか。そんな不安で押しつぶされそうになっている、華金の夜なのであった。