ずっと勘違いをしていたようだ。わたしは、これまでに何度か、思い入れのある場所、作品、人なんかの話を書くのはむずかしいと言ってきた。
それは、言葉にすることで本来の意思よりもチープになってしまうからとか、表現したい感情の種類があまりに多すぎるからとか、そういう理由だ。
昨年と今年、そういう自分のことがあんまり好きになれないなと思って、溜めてきたことばの引き出しを開けたり閉めたり迷走しながら、やっとの思いでそのうちのいくつかを文章に残した。それがこれらだ。
読む人にとってどういう印象を与えるのか、そのこたえはわからない。人によって違うとも思う(なので、感想とかいつでも待ってますので)。
けれども、一人の書き手としていえば、これらは相当の集中力と気合いがないと、書ききることができなかった一本だといえる。
書くのがこわかった。人によってさまざまある価値観を否定する記事になっていたらと思うと震えたし、自分の感受したものを適切に表現できているのかどうかも不安だった。
総じて、自信がなかったのだ。好きであればあるほどに、その思いが強ければ強いほどに、書けなかったという事実を知ったり、書いた末に他者から嘲笑われるのに耐えられないと思った。
だから、それっぽい理由をつけて、書くのを避けてきた。「書けない」んじゃない。真っ当に逃げるために、「書かない」ことを選んだのだろう。
文章を書くだなんて行為は、そもそも論で、恐怖のともなう体験だ。仕事として書く文章であればリスクヘッジのために複数人の目に触れてから公開されるのが一般的だが、それでも筆で人を殴ることは容易にできてしまう。
全然格好のいい仕事なんかじゃないし、ふわふわしているわけもなければ、なんか憧れ〜なんて対象になるべき仕事でもない。単にクリエイティブと名前がついているから、キラキラした世界に見えてしまうだけで。
この仕事を続けていると、一度や二度くらいは、そういう恐怖に巡り合うと思う。少なくともわたしはそうだった。その恐ろしさと戦えなくて数週間くらい書けなくなったこともある。今でも、ふとしたときにそんな悪い夢を見る。
それでも、文章を取り扱う人間としての矜持を多少でも持っているのであれば、書くことから逃げてはいけないんじゃないか、と思うようになった。特に、仕事ではない、趣味として書く文章こそなおさら。
時間がない、まだ言葉になっていない、と後回しにすることはいくらだってできるけれど、それでも残し続けるからこそ価値があるのであって。余裕によって生まれた文章なんて、きっと怠惰な色をしているだろうから。
少なくともわたしは、拙い文章だったとしても、浅はかな考えが露呈してしまったとしても、なるべく「今」のうまれたてホヤホヤ状態を文章として残しておけるような人間になりたいなあと思う。
時間が経てば視点は冷静になるかもしれないけれど、記憶は消える。今この瞬間よりも体温の高い文章など、きっと存在しない。
今年は、なるべく多くの「書けるかな〜」を書いてみようと思っている。たとえば、観た映画とか、読んだ本とか、記録をサボりがちなものこそ積極的に。
ええと、はい。そういう、ただの宣言でございました。