わたしの友人は、みんながみんな、すごくやさしい。
やさしいから、だれかと会話をしているだけで、相手の言葉がはらんだ感情やこまかなニュアンスを必要以上に理解しようとして、疲れてしまったり、頭がぎゅうぎゅうになってしまうようだ。
かくいうわたしもその属性なのだが、という話は横道に逸れるので一旦置いておいて。今日はそんな属性の人間たちならではの話を書いてみようと思う。
先日、友人と話しているときに、ふと「気を遣わせてごめんね」と言われた。
どんな文脈でそう言葉をもらったのか、今となってはすっかり忘れてしまったのだが、たしか友人の相談に乗っているとか、そんな何気ない瞬間だったのだろう。
そのときに、わたしはふと疑問の念を抱いた。いったい、なにを謝ることがあるのだろうと思ったからだ。
「相手に気を遣わせると思ったから」という理由で言えなかった言葉、できなかった行動って、日々生きていると結構ある。それはすなわち配慮であり、相手のことを大切だと思うからこそ生まれる選択でもある。
ただ一方で、「気を遣わせて」と言われたときのわたしの心持ちは、「いや、思いやらせてよ」というものに尽きる。
気を遣うという言葉は、なんとなく相手に迷惑をかけているようなときに出てくる、少しネガティブなニュアンスに受け取れる。うしろにだいたい「ごめんね」がつくことからも、それは申し訳なさの意味を多分に含んでいるのだろう。
でもね、たぶん、というか少なくともわたしは友人に対して「迷惑だなあ」なんて思うことはないし、目の前で困っている人がいるのなら、力になりたいと、ただ素朴にそう思う。
押しつけがましかったらそれこそ申し訳ないけれど、「だって大切な人のことくらい思いやらせてよ」って思ってしまうから。わざわざ遣った気なのではなく、自分主体で生まれる思いやりなのだから。素直に受け取ってほしいのだ。
冒頭で触れた友人にも、同じ話をした。「気なんて遣ってない。せめて思いやらせてよ」と放ったら、「なにそれ。いい変換すぎる。うれしい」と喜んでもらえたので、ちょっとだけにんまり。いや、それ狙いではないんだけどね。
わたしの周囲の人は、自分も含めてすごく多感だ。それは悪いことじゃない。相手の感情や暮らしの奥行きを深く理解してとるコミュニケーションは、すごく色濃いつながりだと思うし、実際そうした人たちに幾度も助けられてきた。
そういう人は、得てして傷つきやすい。自分を優先するっていうことが、多少おざなりになりやすいからだろう。
だからこそ思う。せめてそういう人たち同士のコミュニケーションは朗らかなものであってほしいと。相手のやさしさを「気を遣う」から「思いやり」に変換できたら、これまでよりも抱えるストレスが一つだけ減るはずだから。
小さなザラつきからの解放運動、こういうとこからはじまれっていつも思っているのです。今日は、ただのそういうオチのない話でした。