世の中では、人工知能が人間の能力を超えてくるという話題がよく挙がるが、根本的に役割が違うのだからそんなことはないだろうと思っているタイプの人間だ。
そもそも人間の危うさで向いていないことは人工知能という護り人にお願いしたらいいと思うし、人間の情緒的な面が役に立つ瞬間は人間の力をフルフルに使えばいいと思っているのだけれども。
この人工知能たちの成熟によってもたらされた変化だなあと思ったことのひとつが、構成案や(もはや原稿)をChatGPTでつくるメディアが一定数存在するようになってきたことだ。
「そんなのよくないに決まっている」という提言をしたいのではなく、そういう活用もあるのか〜と結構興味深くみており、個人的には関心の対象になっている。
特に、構成案なんかはロジカルなものを求めれば求める分だけ人工知能さんが優秀に働いてくれるときもある。記事制作に不慣れだったり、制作に予算が割けなかったりする場合は、存分に使ってみてもいいのかもしれない。
ところでわたし個人としては、人工知能さんが書くエッセイとはどんなものか気になっていたので、この機会に、ChatGPTにお願いして何本かのエッセイを書いてもらってみた。
いくつかテーマを用意したのだが、具体性の高いキーワードのほうが書きやすそうな雰囲気を感じたので、今回はたまたま訪れていた「神楽坂」をテーマとしてお願いすることに。
加えて、初稿がいかにも説明的な文章だったので、「エモーショナルにいける?」と尋ねたところ、こんなエッセイが書きあがった。
いやいや、めちゃくちゃエモーショナルだな、おい〜〜〜〜〜。すごいよ、えらすぎ。
少なくともわたしは「心の冒険への招待状」だなんてフレーズを人生で使ったことはないし、神楽坂というまちに「静かな心」を宿したあなたは天才だよたぶん、とも感じている。
ただ一方で、このエッセイに心を動かされるかどうかという点に関しては疑問の念を抱いた。表現こそ情緒あふれるけれども、ある意味第三者的な立ち位置のようにも思えるからだろうか。
そう考えると、エッセイのおもしろさとは、思うに「この世に、こんな体験をしている、感情を抱いている人間がいるということ」にこそあるのかもしれない。
感情の機微のある人間が、その移ろいのなかで、さまざまな意思を曖昧さごと表現していること。それこそが魅力、というか。
とはいえ、わたし自身はこの文章を「そう表現しますか〜」とおもしろく読んでいる。
ChatGPTに文筆を頼るのは流儀でこそないが、アイデアに煮詰まったとき、新鮮さがほしいときなんかには、良き隣人として仲良くしていきたいと思っている。
人工知能によって文章の仕事がなくなることはたぶん、きっと、起こり得ない。論理的にもそうだし、心情的にもそうあってほしくはない、と思っている。
この職業は、決して天才的な才能がないとできないものではない。けれど、人間のゆらぎが生み出す偶発的な仕事には、それ相応の価値があると願っているから。