今日、久しぶりに会った親友と「言葉に残すこと」についての話をした。
最近、わたしはこのプラットフォームに日々のあれこれをほぼ垂れ流している状態で、結構包み隠さずにできごとと気持ちの多くを書いている。
なぜかというと、それは写真でも映像でもなく言葉を残せる場所がここだからで、わたしはこうして言葉を残す時間をなにより大切にしたいと思っているからだ。
「詩乃は言葉を仕事にしているから、言葉で残すのが上手なのだろうな」と、今日会った親友はわたしに言っていた。たぶんそれは間違いでこそないけれど、正しくはない。
言葉を仕事にしたからなのではなく、言葉で表現することを誰よりも愛おしいと思ったから仕事にした。これが、わたしの思う正解だ。
以前、どこかで書いたが、わたしはとある病気で言葉を発することができなくなった時期がある。20歳そこそこの頃のことで、話すのが好きだったから、接客業に就いていた。
けれども、心因性のストレスが原因で、呼吸をスムーズにすることができなかったり、声を思うように発することができなくなった。そのとき、今と同じように心の内を言葉にするようになった。
月日は流れて、言葉はわたしを形作る最たるものになった。生きがいといっても過言ではないものを見つけたのだ。
けれども、言葉の取り扱いはとても難しい。良かれと思って放った一言が相手のことをふいに傷つけてしまうことは結構あるし、余計な一言を送り出してしまうこともある。
あまりにクリティカルな言葉を使ってしまうと、それは鋭利すぎて相手を串刺しにしてしまうこともある。時として、十分すぎる刃物になる。
だから、言葉を好きだと言い張るのは、それが持つ甘さしか見たことのない人間のふわっとした言い分だと思ってきた。言葉を仕事にしているのに、そんなひねくれた感情を持っていた。
最近になってその思いは少し変わってきた。言葉が持つ柔らかさはもちろん存在するけれど、言葉にはとても狂気さがある。こわさもある。人に与える影響は大きすぎるくらいだ。
それでもわたしは、その畏怖を理解したうえで、なお言葉が好きだといえるようになってきた。ほかの表現方法では伝えきれない細やかなニュアンスや色、表情まで伝えられる、奥行きの深さがあるのはやっぱり言葉なんだって思うから。
とても取り扱いが難しい。コントロールの方法を間違えると、自分が思っているよりもずっと深い傷を生み出してしまうかもしれない。
それでもなお、わたしは正直に言葉を残す人間でありたいと今思っている。その理由を克明に話すにはもう少し時間がいるけれど、人を強くしてくれる、代え難い宝だと思うきっかけがあったから。