昨日、祖父の四十九日の法要を終えた。すべてが落ち着いたとは言い難いが、ある程度の区切りではあり、あとは祖父のお骨を納骨堂に納めることができたら、気持ち的にもだいぶ変わるだろうというところまできている。
今回、祖父の葬儀や四十九日法要を執り行ってくれた葬儀屋さんは、祖父が自ら見つけてきた会社さんだそうだ。生前、下見に出かけた祖父は、自分の意思で「葬式はここで」と決めていた。
その祖父の先見の明とやらはどうやら当たっているらしく、とても真摯に祖父を見送ってくれる人たちと巡り合うことができた。段取りをするなかでの不手際も無いわけではなかったが、わたしが見る限り、限られた時間のなかで精一杯動いてくれようとしてくれている人は多いように感じた。
なかでも、ひとり、すごく印象的だった担当者さんがいる。彼は、中途採用でこの業界に入った人らしく、「年齢の割には不慣れな感じがする」というのが第一印象だった。それでも、すごく心を持って仕事を進めてくれる人で、葬家の悲しみや不安に寄り添おうとしてくれていた。
葬儀屋さんには良くも悪くも淡々と仕事として葬儀を執り行う人が多いイメージを持っていたが、彼はすごく人間的な人らしい。納棺式の際、涙を堪えきれず崩れ落ちそうになっている母と祖母の背中を支えていたら、近くで見守っていた担当さんまで涙してくれていたほどだ。
そういう姿勢をすごく尊敬したし、孫にあたるわたしの名前までをわざわざ覚えて、「詩乃さん、詩乃さん」とすごく朗らかに声をかけてくれていた。
そんな担当さんに対する感謝の気持ちを少しでもかたちに残したかったわたしは、葬儀が終わったあと、担当さん宛の手紙を書いてお渡しすることにした。
彼は、そういう手紙を受け取ったのがはじめてだそうで、わたしからの手紙を両手にキュッと握ったまま、目に涙をいっぱい浮かべて「詩乃さん、大切に読みます」とやさしくほほえんだ。
四十九日の法要を昨日終えたあと、その担当さんから手紙のお返事をいただいた。「会社とかの話じゃなく、僕個人の思いばっかりなんですが、よかったら」と渡してくれた手紙には、本当に彼個人の感情が乗りきっており、読んでいて心地がよかった。きっと、言葉を尽くしてくれようとしたのだと思う。
その手紙には、彼がどんな思いで葬儀屋さんという仕事をまっとうしているのか、悲しみとどう向き合っているのか、私たちのような家族を亡くした人々をどう見つめているのか、そういうことが書いてあった。
どれもすごくやさしく語られた本音で、ますます彼の心情を知りたくなるような、そんな内容だった。文字には人の心情がよく出るから、きっと彼の書いた言葉は、偽りのないまっすぐな感情なのだろう。少なくともそう思いたい。
けれど、同時に「語られていない余白」も感じられるような内容であった。手紙という体裁上書ききれないことがあるからという話に過ぎないのだろうが、彼の手紙を読みながら、言葉はやっぱり万能じゃないなと思うに至ったのだ。
どれだけ面と向かって話しても、伝えきれない感情がある。どれだけ時間をかけて言葉を紡いだとしても、表面をなぞる程度しか表現しきれない思いがある。人の言葉は感情の100%を表現しているわけではなくって、時には25%程度だったり、あるいはもはや感情にそぐわない表現だったりもするわけで。
人には感情があって、その感情を表現する手段のひとつが、場合によって言葉だったり、表情だったり、プレゼントだったりといろいろだったりする。だから、一側面だけで人の心や状態を推し量るなんて、本来できっこない。というか、するべきではない。
赤の他人が人の感情に土足で踏み込むだなんてという気持ちではあるが、彼が託してくれた手紙には、映されなかった感情がきっとある。
それを知る権利がわたしにあるのかどうかはわからないが、いつか、許されるのであれば、そんな感情の余白を問うてみたい。そういう気持ちが呼び起こされたのだった。