1994年2月6日、わたしの両親はパートナーとして歩むための誓いを交わしたという。
六本木の本屋さんで出会い、恋に落ち、遠距離恋愛を乗り越えて結ばれた二人は、30年後の今もこうして笑っている。
彼らは、すごく多くの困難を乗り越えている夫婦だと思う。そもそも遠距離恋愛からはじまっており、父は名古屋、母は東京で暮らしていた。
今のようにLINEなどもない時代だったのだから、お互い実家暮らしだった二人が信頼を育むまでにかかった時間はそれ相当だっただろう。
結婚してからも、母は馴染みのない名古屋という土地に越していたし、父は新卒で入社した会社の激務に追われて昼夜問わず働いていたから共に過ごした時間はそう長くないと聞いている。
加えて、1年半後には、娘を出産しているのだから、知らぬ土地でのワンオペを経験した母の苦労は計り知れない。
その後も、大喧嘩している二人を見かけたことは数多くあるし、わたし自身が両親に迷惑をかけるような悪事を働いたこともある。決して、順風満帆だったわけではない生活だったと思う。
ただ、わたしから見た両親は、どんなことがあっても「互いと向き合うこと」を諦めない人たちだった。喧嘩をしても納得がいくまで話し合っていたし、育った環境の違いから生まれる齟齬については、どれだけでも言語化してわかり合おうとしていた。
どちらかというと感性寄りな母と、どちらかというと理性寄りの父だから、話し合いが平行線になることもあった。けれど、母が言葉を選べるまで父は待ち続けていたし、父の理論に対してどう納得がいかないのか、母も言葉にするのをやめなかった。
そうして生まれた二人の絆は、娘から見ていても果てしなく強固で、かけがえのないものになっているように感じられた。
わたしの家族を知る人からは「詩乃ちゃんのご家族って仲良くていいよね」と言ってもらえることが多い。もちろん否定はしない。
でも、わたしが両親を愛しているのは、仲がいいからではなくて、そうして「向き合い続けられる人だから」なのだ。
それは娘に対しても同様で、父も、母も、わたしのことを否定すらしないし、なにに困っているのか、どうしたいのか、と知ることをやめないでいてくれた。
成長の過程でわたしがうまく言葉を編めなかったり、涙しか出せない瞬間があっても、抱きしめ続けてくれたし、ゆっくり紡ぐ言葉に同じペースで頷いてくれた。そういう両親だったから、わたしは愛した。
「子どもは親を選べない」だなんてフレーズをよく耳にすることがある。その真偽は定かではないけれど、仮に子どもが親を選べない世界線だったのなら、この両親のもとを選んだわたしは相当のファインプレーをやらかしていると思う。
どちらにしても、わたしは両親の娘として生まれることができて、本当によかった。人生のなかで最もしあわせなことは、そもそもこの家族の一員になれたことなのだろうと本気で思うから。
わたしは決して、できた娘なんかじゃない。たった一つの親孝行に28年かかってしまうし、両親が喜んでくれるものってなんだろうと、この食事を準備するためにすら3ヶ月も悩んでしまった。
けれども、二人が笑って過ごしてくれた今日という日を大切に思っているし、自慢の両親がずっとしあわせでいてくれたらとは願っている。
むしろ、願うことしかできずにごめんね、という気持ちではあるけれど、注いでくれてきた愛情に応えられるような日を届けられていたら嬉しいし、慈悲深い彼らのことだから「しあわせだ」と思ってくれているのだろう。
大切な人に、大切だと伝えられる時間は、思っているよりもずっと短い。身近な存在の人々にこそ、日々のなかで思っていることをまっすぐに届けられる人間でありたいと、そう強く思うよりほかない。