あたたかさの正体は儚さ

詩乃 / shino
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たぶん褒め言葉なんだが、よく人から「(しのさんって、)おふとんみたい」「ほうじ茶みたい」と言われる。

真意を聞いてみると、たいてい和ませてくれるからとか、癒されるからとか、落ち着くからとか、そのあたりの背景があって選ばれた言葉たちらしい。

たぶん褒め言葉だ。うれしい。ありがたく思うし、同じくらい恐縮な心持ちだ。誰かにとっての温もりになれているのなら、生きている甲斐があるってものだ。

いっぽうで、性格の悪いほうのわたしは「そんなわけないのにな」とも思ったりする。

たしかに、自分の身近にいてくれる人に対しては、なるべく朗らかでいたいと思っている。笑っていてほしいと思うし、楽しく生きていてほしいと思うから、そのためにかけられる言葉をいつも探している。

けれどその正体は、優しさじゃない。儚さだ。というのも、人はいつだって自分の前からすぐにいなくなる。それは必然だという考えが、わたしの頭のなかにはいつだって存在する。

今日、連絡を取っていた人と明日以降も連絡を取れるなんて保証はない。ちょっとした感覚や意見の違いで、人間なんてものは簡単に決別してしまう。

わたしも含めて、人と真摯に向き合い続けられるなんてことはそう多くない。「なんか違う」は、人との距離をつくるのに十分すぎる感情だから。

けれどもそれは、悲しいとか、切ないとかそういうことじゃないとも思う。

むしろ、人との縁なんてそう強いものではなくて、少しずつ入れ替わりながら、今の自分にとって必要な人が周りにいるような感覚があるからだ。

人とのつながりは、思っているよりも薄くて儚い。そういう前提にたって、わたしは常に人と向き合っている。根本的な価値観は、温もりにあふれたものなんかじゃなく、人によっては少しだけネガティブに映るかもしれない。

ただ、だからこそ、今日つながりのある人を大切にしたいと思うのだ。すぐに離れてしまうかもしれない縁のなかで、少なくとも今は自分の身近にいてくれること。そのことのほうが、むしろ稀有で、尊い。

たぶん、わたしは周りの人が思ってくれているようなあたたかな人間ではない。それでも、儚いつながりのなかで、そばにいてくれる人を無限大に愛していたい。

そういう気持ちだけは忘れない人間でいようと、心に決めて今日も生きている。

@shino74_811
暮らしが好きな旅の人。属性は編集者。もっとも気を抜いて文章を書いている場所なので大した期待はしないでください。