久しぶりに気絶しかけた。母と中目黒で食事をしたのち、電車に乗って自宅へ帰宅する途中、その昔に脱水症状で倒れたときのような感覚と同じようなしんどさが身体に襲いかかってきて、危うく失神しそうになった。
特にこれといった理由がわからないのがこわいところなのだが、乗っていた電車内で血の気が引き、耳鳴りがして、世界がグルグル回っていた。生理中だというのにお酒を飲んだのがよくなかったのかもしれないが、たかが2杯だ。
日頃も月経周期に関係なくお酒を飲むタイプの人間としては、違和感のないペースで、違和感のない量を飲んだにすぎないのだが、今日に限っては悪い方向に働いたのか。謎は深まるばかりだ。
とはいえ、そんな状態にも関わらず、自宅に戻らなければという使命感だけでなんとか最寄り駅にたどり着き、ギリギリ歩いて自宅に戻った。
人前で倒れるわけにはいかないし、どうせ休むならひとりで家にいられたほうが安心だからという気持ちが、重たい身体をなんとか自宅に向かわせてくれたのだった。
まあ、そうはいってもその日のうちに回復して、今こんなふうに文章を書けているのだから、なんたることはなかったのだろうなとは思う。体調管理 is 大事。
ところで昨日、普段から仲良くしている友人と電話で話す機会があって、めちゃくちゃに怒られた。「しのは、人に自分のことを話さなすぎる」というのが、友人をキレさせた理由だ。
その友人のことを、わたしはすごく大切に思っているし、「君が困ったり悩んだりしたらいつだって助けるよ」とは普通に伝えられるくらい、ちゃんとかけがえないのだが、そんな友人にすらわたしは自分の心の内を話さないらしい。
たとえば、先日noteで公開したが、昨年の春から夏にかけてうつ状態に陥った。この話、家族を含めた身の回りの人には話していなくて、当の友人にも昨日やっと話をした。
それから、ここでは何回か書いているが、祖父が亡くなった話も友人には話していなかった。その間、連絡はほぼ毎日取っていたし、会ってもいたのに、だ。
これらのことについて「なんで話してくれなかったん?」と、心配されていることを前提に、結構しっかり怒られた。
そりゃ、そうだ。わたしも逆の立場だったら「そんなに信用ない?」と思ってしまうだろうし「気づけなくてごめん」と本気で謝るだろうから、友人側だったらそう思うのが自然だろう。
一連の話を経て、「なるべく多くを話してほしい」と乞い願ってくれる友人がいることを知った。今すぐには難しいけれど、少しずつがんばってみたいなと思うわたしはたしかにいる。
ここで、冒頭の話に戻る。久しぶりに失神しかけたとき、そのことを昨日話した友人に伝えるかどうかすごく考えた。現時点では結局伝えておらず、結果として、あたりまえだが誰も知らぬ話になっている。
昨日、あれだけ自分のことを話さなくてはと思ったはずなのに、なぜここまでブレーキをかけるのか。その理由は「生産性のない会話を自分から仕掛けることがあまりに好きじゃない」ことに尽きる。
というのも、これまでわたしはとある人とのコミュニケーションのなかで、自分の会話を「So what?(だからなに?)」と止められてきた経験がある。自分からふっかける話は、常になんらかの生産性がなければならず、そうでない会話には価値がないと思わされてきたのだ。
友人が近況やなんでもない話を語ってくれることにストレスはないが、自分がそういう状況をつくることには強い抵抗感がある。だから聞き役にまわろうとすることも多い。シンプルに、それなら自分の存在価値を感じられるから。
とてつもなく面倒な性格を持ってしまったことに対する残念さはこのうえないが、正直、この価値観はめちゃくちゃ生きづらい。苦しい。
もっとカジュアルに人に助けを求めたいし、こんなメンヘラみたいな文章なんて書かずに気ままに生きていたいわけだ。
2024年、わたしの目標には「自分の内側をこれまでよりも少し見せていく」ことが含まれている。時間がかかるのは重々承知だが、生きやすい人柄を目指して、重い腰をあげていきたいばかりである。