人生にまつわる悩みが尽きない。わたしが抱く悩みは、だいたいが「どう生きたいのか?」に帰結するもので、それが霞んだり、不明瞭になったりすると、悩みとして吐き出されるような、そんな感覚がある。
ここ最近は、特にそういう悩みに頭を抱える時間が多くて、こたえのない、ぼんやりとした人生にまつわる問いを自分に投げかけては、ひとり深夜に吐きそうになっていたりした。
というのも、他者からみたわたしの人生と、わたしからみえるわたしの人生には、随分と乖離があるように思えている。わたしの人生についてよく知る人は、わたしに対して「アグレッシブにいろいろ挑戦していてすごい」と表現してくれることが多い。ありがたい話である。
自分なりの人生をつくっているだとか、多くの人とはまったく異なる人生を歩んでいるだとか、自分の欲求に素直に生きているだとか。なんだかそういう評価をされることが多く、例外なくそれらは褒め言葉として投げかけられたものだとも思う。
けれどもわたしは、そういう言葉をかけてもらうたび、居心地のわるさを感じるようになってきていた。それは「どんどん安牌な人生を生きるようになってきている」という自分の状態を自覚してきているからだ。自分が生きたいと願うような自分の人生を生きられている自信がなくなってきていた。
それとなくクリエイティブな仕事をしていて、そこそこ自由度の高い会社で働きながら、フリーランスとしても活動を続けさせてもらっている。それなりに自分の時間も確保できて、公私ともに充実している風を装っている。そういう自分が、最近はひどくつまらなく、チープに見えているのだ。
背景には「本当はどう生きたいの?」その問いに、しばらく答えられなかったから、という理由がある。人間、そこそこのしあわせを手に入れると、本当にやりたいことがわからなくなってしまうときがあるようだ。
不自由のないひとり暮らしをしながらも文章で生きているという状態は、相当しあわせだという認識があるから、それ以上のことを求められなくなっていた。
夢の欠片ばかり
探し集めることを
愚かだなんて誰も言えやしない
描いてる自分に
近付くための旅だ
欲張りくらいで たぶん丁度いい
〜略〜
「I Will」
いつの日にも 忘れない
手探りの情熱に浮かされて
何度でも立ち上がろう
それが僕らしい歩み方だって
嫌と言うほど 今は知ったから
〜略〜
「I Will」
時にはまた 痛みに
泣くような夜もきっとあるけど
乗り越えたその先で 自分を讃えよう
無様でもいい 笑えていたら それが答えだ
『僕という名のドラマ / Snow Man』(歌ネットより)
「本当はどう生きたいの?」そのこたえを、最近見つけることができた。本来、書きたかった文章はいったいどんなものだったのか。誰と仕事をしたいのか。自分の作品を、どう残したいのか。そんなことを本気で考えたとき、今の生き方、暮らしの延長線上に、それを達成できる未来はないと思った。
わたしはラクをするために文章を書いているんじゃない。むしろ、苦しむために書いているというほうが近いし、届けたい、伝えたいものがあるから書いている。
恵まれた環境で、誰かの望んだ文章を書くことほどつまらないものがあるだろうか。そんな単純なことに気づいたら、随分と気持ちがすっきりしたのだった。
次の未知へと進む準備は万端だ。どれほどのハードモードさでも構わないから、わたしは生きたい人生を歩みたい。だってそれが、わたしの望んだ自分らしさだから。