「文章を書くのが好きだからライターになりたい」と言っている人に、度々出会ってきた。それを聞くたびにわたしは、自分には失われているその感情を羨ましく、不思議に思ったりしたものだ。
文筆の仕事は、根本的にものすごく地味だ。クリエイティブという名前がついているからすごく華やか、煌びやかなイメージを持たれやすいが、淡々と文章を書き連ねるだけの仕事に、華々しさがあるわけなんてない。
エッセイにせよ、コラムにせよ、インタビュー原稿にせよ、持ち得る素材をどう編み、読み物として成立させるのかを考え続ける仕事だし、その過程はなんなら苦しいまである。
文章を書くというプロセスにおいても、基本的には側から見れば事務作業だ。PCと向き合い、永遠にタイピングを繰り返す人間の、いずれに優雅な雰囲気があるというのか。
大抵、どう書けば伝わるだろうか、よりよい表現はないだろうかと模索しているばかりだし、その過程はやっぱり苦しいことも少なくない。
もちろん人によるのかもしれないだろうが、わたしは「文章を書くのが好きだから」だなんて、とてもじゃないが言えないと思っていた。
苦しみながら生み出した作品が、世の中に広まり、誰かの心に残ったり、喜ばれるものになったり。そうしてはじめて、作り手は安堵する。この仕事を続けていてよかったと、やりがいを実感する。
逆を返すと、そういう喜びが言葉にならないほどの充足感に満ち溢れたものだから、なかなか終わりのこない執筆マラソンという苦行を必死に乗り越えている。そういう感覚だ。
ここ最近、とある仕事でインタビューした内容をもとにコラムをつくるというものを担当させてもらっている。
計12時間ほどのインタビューを行い、それらを原稿に起こすという作業の過程で、はじめてわたしは「文章を書くのが堪らなく楽しい」という感覚に襲われた。それは、あまりに新鮮な感情だった。
目の前にある大量のインタビュー内容を広げながら「こんなふうに表現してみよう」「こんな例えがあったらわかりやすいかな」と常に新しい実験に取り組むような感覚。文筆業を8年続けてきて、はじめて知った高揚感だった。
それがいいのか悪いのかは、正直わからない。わたしは苦しみながらもがいて続ける仕事も結構好きだし、結局、発売されたり公開されたりと世の中に出たあとの過程で必ず言葉にならない感動が得られるから。
その感動以上の喜びはなかなか存在せず、もはや中毒なのである。だから、こんなにも地味な仕事を飽きずに続けているのだろう。
けれども、これだけ文章を書き続けていてもまだ知らない感情があること、その機微が自分にとって新鮮さを与えてくれること。それを知れたこと自体が、とても有意義だと感じている。
原稿を執筆するという営みが楽しいと思える今、わたしはもはや無敵だ。どうかこの感情がしばらく続いてくれるようにと願いながら、今日もまた書きかけの原稿とにらめっこ大会を繰り広げている。