12月11日、22時54分、祖父が永眠した。今、葬儀屋さんを待つ病室内でこれを書いている。最期はとても安らかだった。
22時過ぎに病院からの呼び出しがあり、たまたま病院の近くで食事をしていたわたしはそのままタクシーに乗り込み病院へ向かった。
病院に着いたとき、すでに心拍は70程度に低下していて、呼吸数(RR)が3〜4程度。顔面が蒼白で、白目をむいた祖父は、ギリギリ生きているという状態だった。
何度かの心停止を繰り返したが、周囲からの声かけに応じるように心拍を再開させ、耐えてくれていた。その様は、まるで祖母の次に病室に到着したわたしを待ち、さらに遅れて到着した母を待ってくれていたかのようだった。
母が到着してほんの15分程度で、祖父はすっと息を引き取った。入院してからの日々は決して楽ではなかったと思うが、納得して、ゆっくり眠りについたようにみえる。
彼は本当に強くてやさしい人だった。そうやって、私たち家族がきちんと看取る時間をつくっていてくれたのだから。
それに、アルツハイマー型認知症と診断されて、老老介護の負担や施設代の捻出など、さまざまな不安ごとを抱えた私たち家族の苦悩を長引かせないようにと、介護が必要になるよりも前に息を引き取った。
それが彼の意思だったのかどうかはわからない。けれどもわたしには、それが「お前らには苦労をかけたくないから」という、祖父のただならぬやさしさと、それに紐づく意思だったようにみえた。
お嫁さんである祖母には厳しかったり、口が悪かったり、素直じゃなかったりと、昔のオヤジ感を持っているような人柄だった祖父。けれども、娘である母や、孫であるわたしにはデロデロだった。
子どもが好きだったというのもあるだろうが、愛おしくてたまらないという様子で私たちに接する祖父はわたしにとって“自慢のおじいちゃん”そのものだった。
「じちゃま〜(我が家での祖父の呼び方)」と声をかけると、祖父はいつだってにっこりしながらわたしを抱きしめてくれていた。あの温もりは、たぶん一生忘れることなどできやしないだろう。
「ぽちゃぽちゃよ〜♫」と歌いながら入れてくれたお風呂も、毎年飽きるほど教えてくれた春の七草も、家の屋上からずっと見ていた夏の花火大会も、全部全部、鮮明に覚えている。
年齢を重ねてからも、わたしが書いた雑誌を開いて「詩乃の名前があるぞ!」と、嬉々としていた祖父。旅行に出かけた話をすると「じいちゃんもな、〇〇に行ったんだよ昔。いいんだよなあ」と、懐かしんでいた祖父。彼の笑顔はわたしの生きがいにもなっていた。
写真が好きで、旅が好きだったじいちゃんへ。あなたの意思を継いで、わたしは生きるよ。もらったフィルムカメラは長く大切に使うし、好きだった旅もわたしが代わりに続けるから。だから、これからも遠くから見ていてね。
どうか、どうか、安らかに。わたしは、じいちゃんの孫として、精一杯生きていくから。わたしのじいちゃんとして出会ってくれて、本当にありがとう。これからもずっと、永遠に大好きなんだから。