詳細を書くことはできないが、母がずいぶんと衰弱しきっていたので飲みに連れ出した。
もとよりお酒とカラオケが好きな陽気な母なので、おいしいごはんを楽しんでいたら元気が出るだろうかと思ってのことだったが、想像を超える元気を出してしまい、制御にやや苦労した。
人目も気にせず店で号泣する姿を見ていたら、彼女が日頃抱えているストレスがどれほどのものなのかと思い、いてもたってもいられない心地だった。状況的に娘のわたしができることはそう多くないが、とにかく母の一番の味方でいようと、今日改めて心に決めたのだった。
母とたらふく話をしていて感じたことだが、最近のわたしはずいぶんと余裕があるらしい。時間には追われているし、やりたいことばかりで頭のなかは忙しないのだが、どうにも落ち着いているというのだ。
精神的に相当不安定な母を前にしても、わたしは至って冷静でいられるし、私たち家族の前に現れた意味不明なほどの絶望を知っても、比較的わたしは情緒が揺れていない。
よくいえば、自律的な人間になったということなのだろう。自立ではなく、自律。自分自身で己を律する力が付いたといってもいいのではないかと思う。
生き方も働き方もすべてが自律を求められているこの人生において、身につかないほうがおかしいだろうと思うくらいなのだが。
これまでの人生では、自律的であることを良いことだと思ってきていた。というか、正確には数時間前までそう思っていた。
ところが今日、自律さゆえに動じない自分自身を少し残念に思った。本来の自分自身は、もっと感情豊かで、グダグダな人間だったはずだ。それが、律されたことでややつまらなくなったのではないかとふと不安になったのだ。
自律は良し悪し。実際はそんなこともないのかもしれないが、今日のところはそんな結論に至っている。