会うのは5〜6年ぶりになるおねえちゃんと、久しぶりに食事をした。出会ったとき、たぶんわたしは22歳くらいで、彼女は30歳くらい。
お互い旅人だという共通点があったから、同じコミュニティで知り合い、のんびりと関係性が続いていた。そんな繋がりだ。
旅人同士のオフラインでの会合はむずかしい。なにせ、お互いがまるでバラバラの土地にいることがまあ多いからだ。
彼女は今、東京・栃木・タイを行ったり来たりしているらしく、たまたまタイミングが合ったので東京で会えることになった。
久しぶりに会えたのが嬉しくて、3時間以上、ノンストップで話し込んだのだが、特に印象的だった話があった。
それが、「本音はなにも唯一ではない」という話題だ。わたしは以前から話している通り、北海道の函館に堕ちている人間で、函館で過ごしているとき以上にしあわせな時間を知らない、と思っている。
それなのに、函館を移住先に選ぶのではなく、東京での生活もまだ楽しみたい。もっといえば、ほかの土地への旅もまだ続けていたいと思っている。
そういう、優柔不断な自分のことがコンプレックスだという話を、彼女に相談してみたのだ。
すると、彼女は「いろいろな本音がたくさん織り交ぜられながら、自分自身の本音ってのができているんだろうね」というのだ。
函館で暮らしたいと切に願う心に嘘はない。でも、その傍らで、東京に対する愛着もあるし、たとえば家族とすぐに会える距離にいたいっていう願望もあるかもしれない。
それらは、別に唯一ではなければならないわけではなくて、複数の、ときには相反する感情が折り重なることで、自分自身の本音として定義されるのだと。
だから、ダブルスタンダードであることを苦しく思う必要はないし、そういうことってある。今後の人生のなかで、その思いのバランスが変わることがあるかもしれないけれど、たまたま今がそういう絶妙な感情のバランスのうえに成り立っているのではないか、というのだ。
すごく救われるような気持ちになった。わたしは、自分の本音がどこにあるのかわからなくて悲しくなったり、やるせなくなったりすることの多い人間だから。
今は、そのままでもいいのかもしれないって気づきは、わたしにとっての免罪符のようだったのだ。
いずれ、この感情が変化することはあるのかもしれない。それは自然だし、変化もまた喜びだと捉えて、気持ちのままに進めばいいのだろうとはじめて思えたのだった。
わたしが抱いている暮らしへの価値観は、一般と大きく乖離がある。だから、誰かに話してもなかなか共感を得られなかったし、わがままだとか、なんかすごいねとか、そういう濁され方をしたものだ。
そんななか、同じ価値観を共有できたこと、前を向くための捉え方を模索してもらえたこと。それがすごく嬉しくて、励みになった。
次にいつ会えるのか、そのとき我々がどこにいるのかはまったくわからない。けれども、また新しい感情で彼女と向き合える日を楽しみに待ち望んでいるわたしがいる。