この人の話はすでに一度書いているが、過干渉な体育会系兄さん ── すなわちわたしの師 ── が、「しのちゃんにたぶん合うから」と持ち前の過干渉ぶりを発揮してラケットを譲ってくれた。
「しのちゃんがいらないって言ったら、兄にあげるわ」と話す彼の目は今日も相変わらずなにを考えているのかよくわからなくて、家族より先に筆頭候補に挙がってしまうわたしの存在っていったい……と不思議な気持ちでそのラケットを受け取った。
(念のため補足するが、たぶん彼はわたしのことをすごいかわいがっているんだと思う。なんか、わたしをテニスでボコボコにするたびにいつもうれしそうだから)
存分に使いこなすにはいささかハードモードな気のするmy new gearだが、まあそれも一興。
わたしのプレイをわたしより見ている彼がそう言うのだから、「合うと思って」と言ったその意思を理解できるまでは、大切に使っていこうと思っている。
ところで、そんなエピソードを通して、わたしは人に物を譲るという行為について考えている。
世の中にはフリマアプリやオークションアプリなどが存在しているが、わたしは日頃、購入することはあっても出品することはない。
それは、自分がいっときでも大切に使っていたものなら、譲り先の暮らしまで理解して送り出したいと思っているからだ。
たとえば、大きなものでいうと、わたしは今の部屋に越してきてからカップボードとベンチを人に譲った。
これらは二つとも、昔から仲良くしてくれている後輩のもとに旅立っており、「(彼女たちが)このうえなく信頼できる人間だからこそ譲りたい」という決断をくだしている。
それは別に「大切に使ってくれなきゃいやだ!」というプレッシャーを押し付けたいのではなく、「あなた方になら、煮ようが焼こうが好きにされて構わないよ」という意味の信頼だ。
わたしにとって、物を譲る行為はそのままその人への愛おしさを表現する手段であり、信頼、信用、そういったものと互換性をもった営みのようなのだ。
あくまでわたしにとっては、というだけで、今日わたしのもとへ舞い降りたラケットさんにそれ相応の愛情が詰まっているとは到底思えないが、少なくとも安いものではない(ラケットは相場が3万円ほど)。
そう思ったら、脳内SEOで1位を獲ってしまったことになんらかの意味はあるのだろうし、最低でも彼から嫌われてはいないことの証明くらいにはなる。
今年はその過干渉兄さんと一緒に試合に出ようと思っているので、「うまくなれ」というプレッシャーだと捉えて、今年もさらに強くなれるよう頑張るのみだ。
譲渡という行為から察せる他人の感情には、結構種類があるように思っている。人間の心理状態を考えて悩むのが趣味な属性として、引き続き研究に励んでいこうと企んでいる。そんな華金であった。