トムリドル、本当に闇の帝王になるしか無かった人なんじゃないか。あまりにも愛を知らなさすぎたし才能が大きすぎた。外見・才能・優等生的振る舞いなど、表面的な部分はいくらでも評価される。でも、トムという人格を愛する人は誰もいなかった。
対してダンブルドア。彼も同じように表面の部分ばかり見られてきた人間。だけど家族もいたし、ゲラートのように分かり合える友もいて、ダンブルドアという人格を愛してくれる人がゼロじゃなかった。
トムを早期抹殺しなかったのはダン爺の臆病さもあるけど、同じ天才としてトムの境遇への同情心が(多分、ホグワーツの誰よりも)あったんじゃないか。才能ばかり見られて、本当の自分を見てもらえない孤独も、あるいは才能ゆえの増長への理解も。
挫折があれば生き方を見直すチャンスもある。ダンブルドアにとってそれは、アリアナの死やゲラートとの決別だった。けど、トムはなまじ空前絶後の天才すぎたし、家族はいないし対等な友人もいなかった。後から見つけた父親からも愛されず、純血の親族は近親婚を繰り返した上での狂人だった。
そして何よりダン爺自身が、トムを愛せなかった。彼はそこまで聖人になりきれない。なりたくても、賢すぎるからなれない。「こいつはアカン。(それこそより大きな善のために)早めに消した方がいい」と賢者としての自分がアラートを出していたんじゃないか。子供は聡い生き物で、大人のそういう内心は鋭く見抜くものだと思う。
余談だけど、例えば孤児院に迎えに行ったのが、マクゴナガルみたいな人だったら何かが変わっていたかもしれない。多分彼女は、生徒を表面で評価せずに、一個人として真っ直ぐに尊重する人だから。(マクゴナガルの世代は公式で矛盾しているのでなんとも言えないけれど)
・・・
この考察に特にオチはない。けれど、死の秘宝で出てきたトムリドルの最後の欠片が「わしらには救えぬものじゃ」と呼ばれたことの重みを、最近改めて噛み締めたので整理したかった。
昔は、ハリポタでやたらと愛が振り回されるのは綺麗事のようでちょっと苦手だったし、正直あまり理解もできなかった。ただ、大人になったからか、ちょっと見え方が変わってきた部分もある。
「『リアリティ』だよ! 『リアリティ』こそが作品に生命(いのち)を吹き込むエネルギーであり、『リアリティ』こそがエンターテイメントなのさ」
とはジョジョの奇妙な冒険の人気キャラクター・漫画家の岸辺露伴の言葉だけれど、「愛じゃよ」的な綺麗事の裏に、愛を知らないことの辛さや残酷さ・救えなさを物凄いリアリティで表しているんじゃないか。
だからこそ、ハリポタは世界中で"愛される"作品なんじゃないかと思ったのでした。お後がよろしい気もするし、そうでもない気もする。