2024/04/13

shirace
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電車を降り忘れた。

諸氏にも自分には理解できても他社には理解しえない奇怪な行動があるだろう。私におけるその「奇怪」のうちのひとつが、電車を降り忘れることにある。

今日もそうであった。降りて乗り換えるべき駅——仮に国会議事堂前駅とするが、そこで私は千代田線を降り損ねた。

私がワイヤレスイヤホンをしているから駅の到着案内が聞こえないという可能性は、しかし自信を以って違うと断れる。ワイヤレスイヤホンをしていても扉の開閉には意識が向けられる。実際には、ふと物思いに気を向けていると、するりと降り忘れるということである。地下鉄というクローズな空間であるから取り返しのつく悪癖である。

ふだん、私は国会議事堂前駅(仮称)で千代田線から丸ノ内線へと乗り換える手筈になっている。10号車側に乗っておくと、最短経路で丸ノ内線に乗り換えることができる。鉛直方向の移動が多く足腰をよく使う経路だが、無用に通路を歩かされるよりは乗り換えごたえがあり、なんだかんだ楽しい連絡経路である。

ところが今日降り忘れたことで、千代田線と丸ノ内線が交差する次の霞ヶ関まで、もう一駅を過ごさねばならなくなった。普通に考えれば同じような乗り換え場所で同じ乗り換えを試みることができそうだ。

それを許さないのは東京の憎たらしいところである。まず霞ヶ関駅を10号車側で降りると、乗り換え用の通路は1号車側にあるという。つまり私が乗っていた位置は日比谷寄りであるということで、見返りとして200mの通行を求められる。そこから十分に階段をのぼると、次は日比谷線のホームの端を案内される。丸ノ内線は降り立った日比谷線のホームの反対側の極にあるという。この時点で嫌な予感が漂う——私の行き先は丸ノ内線の先頭車だが、私は日比谷線のホームの先で丸ノ内線の最後尾に案内されるのではないか……?

伊達に東京メトロと十数年の付き合いをしていないので、はたして私の予想通りとなった。国会議事堂前なら3分で乗り換えられた道筋を6分くらいかけて歩くハメになり、乗り換える予定の列車には目と鼻の先で別れを告げられてしまった。

今日が夏の熱帯夜でなかったことが不幸中の幸いと言うべきか。汗だくになっていたら目も当てられなかったが、心地よい涼しさの中ではアスレチック・散歩の状況で安心といったところだ。

私がわざわざ(4ヶ月も放置されていた)この場にものを語るにあたり、ただひどい目に遭わされたことのレポートは目的にしていない。

それは、特に丸ノ内線に乗ると印象に残りやすいもの。夜の地下鉄におけるたくさんの外国人の存在についてを書き残すためである。

私が夜9時まで都会でバイトをする身になって、ちょうど1年くらい経つ。高校生の頃の私はどんなバイトをして大学生を過ごすかなど想像にも及んでいなかった。まして、このバイトをしていることなど、目睹にも現れるまい。ながら数奇にも私は退勤のために夜の地下鉄で本を読み、今日に限ってはこれを頑張って入力して、数々の人間の間をぬって1人分の椅子を占めている。

それこそ高校生のころは、休日の夜など酒に身を灼くような大人のかたまりが出来上がっているものだと考えていた。それはある部分では確かで、山手線に乗り込んでいる種々の人々はその形容ができそうだ。だが、これが地下鉄になると、どうもそうではなくなる。明らかな外国人——もう少しうまく言うなら、東アジアにやって来た人の様子をしている。

東アジアのひとびとは、実際東京の副都心では珍しくない存在である。私のホームタウンである池袋とその周辺ならば、ハングルや中国語を操る人はとても多い(これはあなたが想像している以上に!)。いわゆる観光客とは異なる温和な彼らは、私たちと同じようにまた住民である。

ところが、副都心から内側——渋谷や表参道、赤坂、日比谷、そして霞ヶ関などでは、そんな彼らやだらしのない日本人は見受けられない。そもそも人がいない。用事などないのだから居ないと言われればその通りなのだが、その代わりとして居る人々というのが先述した「東アジアにやって来た人々」、西洋や西アジアのような地域を感じる人々だ。少なくとも東アジア人たる私たちとは毛並みが違うようである。

彼らは誰もいない東京の空っぽで、何をしているのだろう。

駅で待っている姿をよく見かける。壁際で、スマートフォンにも向かわず、何かを待つ。見回すようでもなく、凝視もなく、荷物も多寡さまざま、ただ通行人を邪魔しないように待っている。

談笑する家族連れを見かける。こどもが1人や2人、父親に母親、どこかアミューズメント施設の帰りなのかもしれない。どこなのだろう。銀座よりも新宿寄りからずっと丸ノ内線に乗っているようで、そして彼らは本郷三丁目だとか、不思議なタイミングで降りてゆく。

荷物の軽い若者が、ひとりで乗っている。わかりやすい旅行者は東京などで降りるが、洗濯をちゃんとこなしていそうな彼らはやはり、どこかのタイミングで丸ノ内線を降りてゆく。俺たちがアメリカンだ、と言いたげな風貌をしているグループは後楽園などで降りて、仲睦まじげだ。

むすっとした顔でスマホをいじる日本人は、揃いも揃って終着の池袋まで乗り通していく。日本人の彼らもやはりどこかからやってきてどこかへと帰ってゆく中の一時点を共有する間柄なのに、同様の異彩たる外国人には特段の注目をすることとなる。

とはいえ、彼ら外国人の存在はやはり不思議である。彼らは溜池山王のがらんどうに、何を待とうというのか。果たして彼らは、今日の終わりをどうやって過ごすのだろうか。