2限に行くために8時にアラームをかけて、確かに7:50に起きたことは覚えているが、それ以上に理工に行こうという意志があまりに薄弱なので二度寝をし、起きたら10:30となっていた。結局家は13:30頃に抜け出す。
水曜日の怠惰はきょうび始まった話ではない。2限に取っている科目は全学部に開かれているが同時に特定コースの必修になっており、理工の人間が固まって内輪ノリを形成している。奇異な動物のような目線を浴びながらつかみどころのない授業を受けていては身体が凝り固まってしまう。3限は3限で出席を取らず、期末試験の問題は既に公開されている。やはりこれも優先度は限りなく低い。4限の英語の授業だけは必修なので足が向くし、小テストにも気持ちが入る。受け応えのある講義をせよ、と強く思いながら、しかし受け応えのある学問領域など自然に湧き出るものではない。手前味噌の内容を語りつくすことで、単なる通過点にしか捉えない学生たちを、国境審査官のごとき様相をしているしかないのだろう。
とはいえ、過去問の出された2限と出題予定の問題が出された3限、そのどちらも期末試験はしかと対策しなければならない、やや歯ごたえのあるもののようで、私はやや陰鬱な気持ちを抱いた。十分に対策をしたいという意志はあれ、時間がないという言い訳でろくな対策を心がけずに臨んでしまう未来を脳裏に浮かべる。これから2週間は某に時間を吸い取られるため、これらの試験に限らず時間は全く足りない。それまでの間、つまるところは今対策を行ってしまえばよいのだが、それをするには先にキューにある課題をこなさなければならない、と優先順位を盾にとって取りやめてしまう。仕方ないので金曜日に2, 3限をともに取っている人間と落ち合って勉強をしよう、ということになった。
その人はきわめて自己の優先度が高い。沈思する前に自分の立場を表出するため、周りの空気と不調和を起こしている。間違った方向に突き進むことは少ないが、その性質には今一つ慣れない。考え自体はさほど突飛ではないし、元来の真面目な部分によってサボりを繰り返す私に幾度となく情報を提供してくれている。私は彼女から尊敬を受けているようだが、少なくとも今は私との関係に好く作用してくれている。
4限が終わった後は人間3人ほどと会う。ひとりは授業に出席しに行った。残す3人で文キャン手前のコーヒースタンドに入り、コーヒーの味を検分する。友達のひとりのNはスターバックスで良いといってそちらを注文していた。私ともう一人のAは同じ深煎りを飲み、値段相応だろうという結論に落ち着く。値段の割に安定した味を見せるセブンイレブンのコーヒーはよく出来ている。マクドナルドのコーヒーはそれに比べると正当に値段相応だ。自分の感覚がうまくAとの共通見解を見出せると、自然連帯感が生まれてくる。
この一週間で、話題の中での言葉の繰り出しが下手になった。躁でなくなったからだと解しているが、一方では相応に感じた今週初めの静寂を発散しようとして焦っている兆候なのかとも思考する。とはいえ、周囲の人間も冴えたコミュニケーションを表さないように思えるのは、落伍への惧れが生み為すバイアスなのだろうか。
巷にVaundyらしき風貌の人間がいる、その程度もまちまちであるという話から、高円寺や下北沢、渋谷の中で最も「らしい」Vaundyがいそうなのはどこだという話があった。吉祥寺だろうというAの云いは尤もだった。その話をひきずって、Vaundyの曲を流しながら、めいめいに自分のすべきことを取り組む。私の場合、農業経済学の課題をするための勉強を進めることであった。Aはディズニーツムツムをやっていた。どうも某の周辺でこれに限らず過去やっていたゲームに熱中する事案をいくつか観測している。熱中の波は数年おきにやってくる、キチンの波かのようだと思う。
5限を終えた友達を待ち構え、再び4人でオトボケに入る。やはり話をうまく広げるに至らない。語れない時には語るべきではないということは思い返してつくづく感じることだ。とはいえその当時は大いに焦燥を覚える。寝て忘れて会話への良い振る舞いがすぐ取り戻せればよいが、このような沈降の時期にあがくのは、かえって都合悪しくなるものだ。
KIDS RETURN / 久石譲 - 北野武の同名の映画の主題曲。久石譲の映画音楽は宮崎駿との関係に目線を奪われがちだが、私にとって久石譲の最高の作品はこれだと信じて疑わない。北野武が映画の道に入るきっかけとなった『戦場のメリークリスマス』からの強い影響を思わせる。