仕事をする。普段乗っている列車の組み合わせに準備が間に合わず、よく混みよく遅れる時間帯に差し掛かった。仕方なく副都心線ではなくJR線を用いたが、そちらも遅れに遅れ、到着はシフト時間3分前になってしまった。この時点で私は良い調子で生活できていないなとしみじみ感じたが、到着した時にいらっしゃった社員さんの容貌の変化にすぐ気付くことができなかった。これがさらに自分の調子の悪さを思わせた。
何日かに1回は訪れるこの手の不調に対して、明確な解決方法を持ち合わせているわけではない。気にしなくなったらその時点で終了であるが、気にしなくなるまでには途方もなく長い時間、それでも人生の中ではほんのわずかな時間が要される。何らかのものに原因をなすりつけることは出来ない。自分の行動を顧みればみるほど、直感がうまく作用していない、していたのにも拘らず掴みきれなかったというやり切れなさに陥る。つまるところ、過去を顧みたくなって仕方がない、自分のミスマッチな動きがスローモーションの状態で頭脳に焼きつき続けることこそがこの宿痾の正体なのだろうと思う。
それに気づいたのが今日の収穫だった。つまり、いくつかの失敗によって「これからも失敗を起こすだろう」という勝手なる自己理解に重点が向けられて、次に起こることが「うまく立ち振る舞えなかった」という結論を導き出すように自分自身を作用させてしまうのである。言語論的転回のようだ。ならば、そんな失敗を起こす自分に対しての省察を繰り返すよりも、次に起こることに対して真摯に取り組もうという方向に自分の視線を向けたならば、さほど失敗を起こすことはないのである。仕事の後半で黙考しながら私はそのような意識をし、多少はまともに振る舞えるようになったのではないかと思う。
あるいは、自分が何か、誰かのために振る舞えるタイミングをずっと待ち続けているが故のものであろうと思う。誰かに仕事を取られた時の居所のなさだとか、おのがじし作業に取り組んでいる時の自分の孤独感といったものは私にとっての天敵だ。それは自分が何らかの貢献ができていなかったり、誰かに好く作用するようなことができない自身に対して価値付けができなくなってしまうからだ。それがない時、何かしらいい振る舞いが出来なかった時には、それを取り返すためのものを探す。挙動不審はそのようにして生まれる。
バイトが終わったのち、大学に向かう。道すがらで件(サークルを識別する固有名詞)の幹事長とすれ違い、行った先のコンビニでは愛好する銘柄が置いてあった。どうも機運が向いているような、喜ばしい気持ちがした。友人と学生会館で会い、レーズンマーガリンバターロールを食べては寸評をしたり、某の話をしたりして過ごす。自分の1つ上の代は引退ということで某の部室に居なくなり、その結果であろうか、どことなく寂しい印象がある。今日は2人ほど所用があって来ていた人たちがいたが、「来るとどうしたの? って聞かれるようになったのが居心地悪い」という言葉には、すごく今後に迫ってくる恐ろしさを感じた。
火麒麟で某の飲みがある。3卓で別れた中で、中央の卓が焼酎をボトルで頼み、それに追随するように別卓が日本酒を頼み、私の居た卓は負けじと白ワインのボトルを頼むといった盛り上がりがあった。卓の座り方はあみだくじを用いたが、あみだくじを用いると私以外が全員女性になるジンクスに今回もまた引き込まれた。多少会話が止まってしまうことを気まずいと感じなかったことで、割と何とか話題は繋がり続けていた。恋バナのキラーコンテンツは、いつまでも不変のものであるらしい。某においては特殊とされる私の話は、尾鰭がついて宗教のようになっているらしく、非常に不本意な思いをする。
2軒目先で、友人のTが大いに吐き散らかすことなどが起きる。同じ部署の所属であるし最適であろうと考え私が小一時間掃除をしつつ介抱し、彼を家まで送り届けた。Tは今まで見て来た中では比較的理性を保ちながら「そう」なっていた(飲み過ぎの時の、人の要請を受け入れようとしない状態に対する表現。何らかの言葉ですでに定義されていそうではあるが……)。とはいえ、酒のキャパシティもある程度ありペースも気に掛ける彼がどうして今日ばかりはこのような凶行を起こしたのか不思議であった。彼が部署内の飲みで背負ってしまう保護者精神が、今日の飲みばかりは解かれていたなのかもしれない。
終電はとうに過ぎていたので歩いて帰るでも良いと思ったが、泊まっていけという彼の云いを受け入れて、そのまま彼の家で一晩を過ごした。