― 暴力性について 「この私が存在すること」の暴力性をめぐって―【過去の文章の再掲・編集済み】

shirakawa
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  • (…)修士課程では、この「言語の暴力性」から、「存在の暴力性」とでもいうべき領野へ考察の焦点を移して行きたいと思っています。

  • ここでいう「存在の暴力性」は、具体的・可視的に生起する諸々の暴力的出来事などを第一義的に意味するものではありません。私が認識し、思考し、語るということの内に(非常に大雑把に言えば、日々存在することの内に)不可避的に生じている「他者の排除」という暴力を意味します。

  • 例えば、私がものを考える時、私が考えられる内容は限られています。すべてを考えることなどできない以上、何かを「考えずに済ませる」ことが、思考を成り立たせる不可欠な条件なのです。従って、思考の場が成り立ち、そこで何らかのものが考えられている際には、それ以外のものは思考の<外>に追いやられています。これは、何かを語る場面、認識する場面でも同様です。何かが排除されることによって、何かが認識され/思考され/語られうるようになるのです。

  • この排除される他なるものたち(他の思考・他の認識・他の語り・そして他なる者…)を、いまひとまず乱暴にも<他者>としてまとめ上げてよいのなら、思考/認識/語りにおける排除とは、他者の排除にほかなりません。無論、この排除自体が即暴力的であると考えられるべきではないでしょう。

  • しかし我々の思考の在り方が特定の歴史の上で、かつ特定の社会の内で構成されるものでもある以上、それはある程度固定化されたものでもあるはずです。そして思考の在り方が固定的であるということは、排除される他者たちもまた固定的であることを意味します。このようにして常に排除される他なるものにとって、いや排除されたという事実からも排除される他なるものにとって、この排除は暴力的であるとはいえないでしょうか。

  • そして厄介なことに、この排除は、思考や認識の<外>への放逐を意味するものですから、我々の思考の内側ではいったい何が排除されているのか、いったい何ものに対して暴力が振るわれているのか気づくことができません。

  • 特定の他者に対する迫害であれば、改善を試みることは可能でしょう。あるいは、自分が身体的暴力を振るってしまうような事態を注意深く遠ざけることも可能です。

  • しかし、ここでいう他者排除の暴力は、我々が人間として存在すること(認識し、思考し、語ることなど)を可能にする条件ですから、我々がその暴力から免れることはできませんし、また「いかなる他者への暴力か」を明確に把握することも困難です。つまり、正義感にあふれる心優しい者の「温かい言葉」にも排除され続ける他者がいるかもしれないのですし、特定の暴力的事象に対する反対の声が、実は他なるものへの暴力を行使していることもあり得るのです。

  • この不可視的で不可避的な暴力に対し、我々には何が可能なのでしょうか。私が存在することにおいて他なるものが常に排除されているのだとしたら、その他なるものとの遭遇はいかにして可能なのでしょうか。そして仮に他者と遭遇しえたなら、その排除されてきた他者に、いかなる仕方で責任を取ることが可能なのでしょうか。責任をひきうけることの内に、新たな暴力は在り得ないのでしょうか。いやより慎重になって考えれば、そもそもこの暴力は否定されるべきなのでしょうか。

  • このように、他者排除の暴力=存在の暴力は多様な問いを産出します。無論、これらすべての問題について考え、応えることは難しいと思われます。しかしともかく、暴力性を特定の出来事に矮小化したり、博物館に陳列された展示物を眺めるがごとく、「ガラス越しに」暴力をのぞき込んだりすることなく、「この私の」含む暴力性について、一歩ずつ考えていきたいと思っております。