今日は友人を誘って山内マリコさんの著書文庫化出版を記念したトークショーに参加するため、青山ブックセンターへ向かう。山内さんが家庭内平等を目指すために同棲から結婚までの日々を記録したエッセイで、対談相手にパートナーとの関りをオープンにするバービーさんが登壇。自分の著書内での発言を「そんなこと書いてましたっけー」とすっかり忘れて今という瞬間を楽しく生きているバービーさんを見て、横の友人と重ね合わせてしまった。立ち止まり悩み後ろを向く私にとって、2人は眩しく感じる。山内さんの「私が警官で夫がまるで泥棒かのような関係」という例えには、自分を客観視させてもらえた。いかに日頃自分を棚に上げているか。
イベントの終盤の質問コーナーで、私のものが最初に読み上げられた。目に留まってくれるだろう、と書いた「来週結婚します」というワードが司会の方に読み上げられるとあまりにもあざとさが滲み出ていて笑けてしまった。「男社会を生きてきた彼へ教育をするのには時間がかかるんですね」という内容の感想に対して、山内さんが同情してご自身の経験も交えて色々な視点からコメントして下さった。ただそのアドバイスを聞きながら、彼の理解のなさよりも自分のスタンスにもやもやしていることにふと気が付いた。フェミニストを自覚する私がどうして自分が結婚するとなるとすんなり名字を変えたりと、社会の求める型にはまっていこうとしているのか。私の中に居座る保守的な私に無意識に誘導されているのではないか。彼に変わることを促しておいて、自分は誰かが決めた考え方を踏襲して安心感を得ているのは事実だ。文字にして言葉にして認めたくなかったから自分の体裁よい「苦労してます」という感想を書いてしまった。
帰宅すると、彼が洗濯・買い出し・炊飯・洗い物をした状態でジムに出かけていた。自分が教育してあげてるのが負担だ、なんてよく言ったもの。情けなくなり、彼の仕事である洗い物も今日は率先してやった。口の立つ奴が偉いなんて誰が決めたのか。行動で示す泥棒に警官は冤罪を認めるしかできなかった。