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ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア 感想メモ

shiwoni
·
公開:2024/3/3

※2026.9.19に全文修正。

1.

2024年3月末、老朽化による閉館が目前となっていた福岡市の大洋映画劇場(通称中洲大洋)で初めてノッキン・オン・ヘブンズ・ドアを観た時の感想メモ+αです。

中洲大洋は来年、ミニシアターとして復活予定とのこと。あの時と同じ空間が戻ってくることはないけれど、思い出の記録と共に新たな応援の気持ちも込めて。

※ラストで突然、ちいかわ映画の内容の話をします。

※名前の表記は字幕準拠です。

2.

特にラストが有名な作品だけあって、今回はおぼろげに結末を知っていたことに救われた。何も知らずに見ていたら確実に「寄り道してる余裕ある!?ほんとに大丈夫!!?」って気が気じゃなかったと思う。

そもそも私は、「悪さして隠して逃げて追われる側の視点になって、今にもバレるか捕まるかというハラハラ追体験」するのが大の苦手なのです。途中、「ぎぇぇーー!早く逃げきるか、いっそ捕まるかどっちかにして!」って意味でも内心のたうち回ってた。そんな状態でも一時停止はできなくて、よほどのことがないと外にも逃げることもできず、強制的にラストまで連れていってくれるから映画館ってだーーい好き。最後まで見てこそ意味があるんだと分かっていても、家で配信見てると反射的に止めてしまうことがある。頼むから私をスクリーン前に軟禁してほしい。

そんなハラハラヒヤヒヤロードムービーの終着までのこと。

振り返ってみれば、最初のテキーラのシーンの時点で、既に映画としての美しさが完結していたようにも思う。そのあとの時間は全て、あの会話の上に積み上がっていくものだった。

マーチンとルディの旅は、多少の差はあれ、どちらもまもなく断ち切られるように終わりを迎えるのだという約束の下に成り立っていた。互いに同情の必要がないから、なんだか当たり前のことのように並んで進んでいけたのだと思う。

どんな人間にも死は訪れるし、それは明日でも次の瞬間であるかもしれない。それはそうなんだけど、やっぱり、来週、来月、来年を生きる可能性を持つ者と、ほぼ絶望的に持たざる者との間では、どんなに願っても努力しても、対等であることはとてつもなく難しい。

だからと言って、死に直面した者同士なら簡単だという訳でもない。2人は最後まで(少なくとも我々の前では)身の上話をほとんどしなかったし、彼らの人生や生活のことは大して分からないままだった。そのことが余計に、彼らを対等のままにしていたように見えた。

マーチンの母親のことを考えると、あの短い時間にあんまりにもあんまりな事態だったようにも感じるけど、我々の見たものなど彼女の人生のほんの一部に過ぎない訳で。せめて、あのとき必死にマーチンに寄り添ったルディの姿が、彼女にとっても何かになっていればと都合の良い夢を描くばかり。

ルディには何かを残したい相手はいなかったのかもしれないし、いたとしても、振り返りたくはなかったのかもしれない。

彼らはただ、終焉の知らせと共にたまたま巡り来た縁に乗り込んで、それだけ握り締めて走ることだけを決めた。それ自体は逃避でもあるし、結末を選び取ったと言えるのは、本当の意味での最後の場所で全てを振り返った時だけなのだろう、とも思うのだけど。

最後の最後の少し手前、銃を向けられた二人が空を掻くように手を握り合ったところで、ボロッボロ泣いてしまった。

あの場面で突然現れたギャングのボスの、それこそ天国とか、物語の外から不意に訪れて静かにゴールを指し示す役割を携えてきたかのような異質ですよ。ああ、もう終わるんだという予感や、その宣告そのものが人の形を取って現れたかのようだった。あれはもう、あちら側の存在だったと思う。異界の使者だよ。だから、天国の噂のことだって知っている。

どうあれマーチンとルディは勢いよく法を犯しているので、少なくとも彼らを追う警察は2人を許す立場にも見守る存在にもなり得ない。だから、もはや許す許さないの話ではないのだけれど、ここまでのことを真っさらに戻して最後の場所へと送り出す、何処かからの使者の役はあの人しかいなかったんだろう。

ギャングの金でガソリンスタンドと銀行強盗の分を返して、残りをポストに投げ込んで、最後にそのギャングに海へと促されて。ぐるりと回って全てを手放した2人は、結局またテキーラ一つを片手に目的地へと辿り着いた。

ところで私は、この作品のビジュアルとして、ポスターとかでよく見る咥えタバコの2人の姿しか知らなくて、実際のルディの印象がそれと全然違ったのでびっくりしたんですよね。もっと擦れ切った二人組を想像していた。だから余計に、ルディの柔らかい表情が最初からずっと印象的だったのだと思う。救急車の中の不思議に緩んだ表情が、ずっと目に残っている。

そうして、初めは気弱に見えていた彼は、ゴールの前に立ち、怖くはないと、もらった強がりを返すように相棒に告げた。何度も何度も必死に介抱した彼の発作を、最後にはただ、隣で静かに見送った。

たぶん本当は、海を見たかったのも、怖かったのも、連れ出してほしかったのも。寂しくなりたくなかったのもさぁ。

って、最後の最後に、じわりと思う。もう、言葉にする必要のないことだったんだろうけど。

今から入ろうとする扉をノックするっていうのは、私には多少なり能動的な行動に思えるんですよね。これは私の持ってる言葉の感覚とか、死に付随するお迎えのイメージによるものなのかもしれないけど。2人の旅路もまたそうだった、という前提で、最後のシーンは、全て受け入れて待つばかりのマーチンの代わりに、ルディがそっと扉をノックしていた時間にも見えた。

ならばルディの扉は、向こう側からマーチンが開いてくれたらいい。この先も寂しくないように、彼らは海を目指したのだから。

3.

よく話に聞いて知った気になっている作品も、自分の体験にするまではまだ自分にとって何者でもないのだ、ということを、あの劇場でしみじみ思い知ったのでした。で、そうやって自分のものとして咀嚼した作品は、また別のところに繋がっていく訳で。

つい先日、今話題のちいかわ映画を観てきまして。

これも当時のSNS上でおぼろげに原作を眺めていた(フォローしてなくても視界に入るくらい身の回りで話題だった)から、ざっくりと内容は知ってるつもりだったんだけど、キャンプファイアーの前でヒトハとフタバの2人がきゅっと手を握り合ったところで、唐突にどわーーーーーっと泣いてしまったんですよね。ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアじゃん!って思って。いやよく考えたら全然違うんだけど。違わなかったんだよなー私にとっては。

こうやって、観た作品っていうのは、自分の中で自分にしか分からない形で、繋がっていくんだよなぁ。と、思ったのでした。よい映画体験だった。

あの日の中洲大洋での時間への感謝をもって、新しいスタートへの祝福となりますように。おしまい。

※別名義でnoteにも投稿済。

@shiwoni
しをにです。感想メモを残す場所として試運転中。