本丸は今年で6年目を迎えた。初鍛刀のくにとしくんは、極めてからの時間がわたしと過ごした時間の大半だ、ということに気が付いたのは今年になってからのことだった。とーらぶを始めたのは大学生のときで、まだ成人していなかった。
そして、唐突におーかねひらくんを好きになって多分そろそろ1年くらいになる。
好き過ぎて顔が見えなくなってからいい加減大分経つのだけど(きっかけが去年の11月ら辺だったことを覚えている)相変わらず顔を見ると照れるのでたまに思いつきで近侍をお願いしても、せっかく居るのに肩の先とか向こう側の山とか石とかばっかり見てる。たまに他所の本丸の画像で見かけるとそれはちゃんと見えるので「このひとこんな顔してたのか、へえー」みたいなことを思ったりもする。面白いな。顔も声も台詞も、どこの本丸にどのタイミングで何をきっかけにしていつ来たって変わらない。違うのはそれを受け取るわたしの手触りだけだ。わたしは、自分のところに盆の終わりにひょっこりやってきたこのひとの顔だけが見えない。このひとの喋るのだけ聞いていて頗る照れる。なんということでしょう。自分でも何が起こってるのかよく分からない。なにが違うと言われたらわたしのところにこの日に来たという一点だけが違う。なんということでしょう???たったそれだけで、わたしはこのひとの顔が見えない。
そもそも、どちらかなどというまでもなく、気が合わないだろうなと思っていた相手だった。声も図体も態度もお世辞にも控えめとは言えない男だというのが長らくの印象で、今でもその片鱗を垣間見るのだから、それは全くの思い違いということもなかったと思う。当時既に50も優に越える刀を抱える本丸でわざわざ苦手意識のある物を近くに置く理由もないから刀はたぶん、近侍をしたことがなかったはずだ。練度上げのための出陣や遠征、内番以外で声を聞くことはほとんどなかったのでないだろうか。だから、あんまりこの時点で良い印象はない。苦手意識以上の無関心で本丸を運用することそれ以外に何を思うこともなく接していたのでないだろうか。あんまり近くにいて欲しい相手ではないな、というのがこの刀に対する唯一明確な感情だった。
好きになったきっかけは近侍曲だったから、多分10月になるかならないか辺りのことだろう。長く本丸を続けているだけあって太鼓以外の楽器は常に有り余っている本丸なので、秘宝の里が始まったら出陣なしに交換はできた。第一印象はもう覚えていないが、試しに聞いたときに、いいなあって思ったのだと思う。そんなものだ。一部を好きになったら全部を知りたくなって、初めてこの刀に関心を持って近侍に置いた。結果として一目惚れならぬ一耳惚れをしただけあって曲はめちゃくちゃかっこよかった。あんまりかっこいいので好きなのに、好きだからこそ、聞けば聞くほど情緒はぐちゃぐちゃになった。あんまり好きだから聞きたくて随分長く近侍に置いた。
それは何日目のことだったのだろう。ふと、苦手に近付き難く思っていた刀を、置いておくのが苦痛でないことに気付いた。意外と控えめな話し方に、怖くないのかもしれない、なんてうっかり思ってしまったのだ。あとのことは細かく覚えていない。気が付いたら好きだった。苦手意識はあったが元々顔立ちはきれいだと思っていたこと、近侍曲がかっこいいこと。それに煽られて意識していることを自分が理解するより前に、顔が見えなくなってしまった。
それでも気持ちは、なんかよくわからないけどすごく好き、くらいのものでそれ以上に何があるというのではなかった。決定的になったのは一月。あんまり予想外のところにはまりこんでしまったから、面白半分で来た時の日付、修行から帰ってきたときの日付でホロスコープを出して、相性を見てもらった。一方的に好きになって所謂夢小説に書き起こしている後ろめたさが理由の一つだった。そのとき、他人から初めて「(おーかねひらのこと)好きでしょう」と言われて、本丸の、うちに来た刀というだけの感情に由来する「好き」ではない可能性が浮上した。既にあまりにかっこよくて顔はまともに見えない状態に陥っている。それでまだほかの刀と同じように好きなつもりだったのだから笑ってしまう。まじめに、私はそんなつもりはなかったのに。
本当に好きなんだろうかとたまに考え始めては、蹲って呻いている。
突き詰めようとして考え込んでも、頭は堂々巡りをしてただおなじ轍を上を走りその溝を深くするばっかりで新しいものは見えてこない。ただ、好きになってしまったらしい、と、本当にこれは好きなんだろうか、という戸惑いの上で反復横跳びを繰り返している。なぜ好きか、と聞かれるとすごく困る。なぜ好きなのか。どうして好きになったのか。どこが好きなのか。本当に好きなのか。わたしもわからない。根拠の無い好きは信用ならなくてわたしは疑心暗鬼で好意らしい形をしたそれを凝視するけれど未だその正体はようとしてしれない。ただ顔もまともに見えないくらいにかっこいいと思っている。一言喋るのを聞けば、鬱々とした気持ちの一切がどうでも良く思われるくらいそれは大きな波を作る。なにかをして欲しいとは思わなかった。そこに存在してるだけで嬉しい。これを好きだと言わなくて、なにを好きだと言うのだろう。
むかし、まだ20歳を超えてそこそこの頃、ひとを好きになったとき、途方に暮れたことを覚えている。
どうにも好きらしいと気が付いて、好きになったところでわたしがこのひとに差し出せる与えられるものは何も無いのでは無いかというところに唐突に思い至ったのだ。それより前に、政治家の、セクシュアルマイノリティに対する差別的な発言が問題となりSNS上で波紋を広げていた。わたしはそれを反発するべき発言だと受け止め、そこで止まっていた。けれどセクシュアルマイノリティの範囲に入らないと推定されるわたしにもかかる波だった。ひとつ申し開きをするならば、わたしはその人とどうにかなりたいと思っていたわけではなかった。ただそのひとへの好意を引き金にふと考えてしまったのだ。産むつもりも姓を変えるつもりもないなら、なにが対価に差し出せるのだろう、と。帰り道を見失い呆然と立ち竦むような心許なさだった。そのとき薄暗い獣道で頼りない細い紐の目印を辿るような切実さで、なんにも差し出せないのなら好きになってもしょうがないのかもしれないという極端といえる結論に辿り着いて、未だにそれは覆されることはないでいる。そもそもからしてそういう風に好きになることが滅多にないということもあるのだけれど。
けれどそれは相手がそこに存在する生身の人間だからこそ生じた感覚であり絶望であるということを除いては話にならない。
このひと、とは言うけれど結局のところ、おーかねひらくんはわたしの前にいるけれど居ない。生身の人間ではない。なにかを与えられない代わりに奪うこともないのは、いくらでも勝手に好きでいられるということでもある。このひとは一方的に喋るだけで私と会話をしてくれるわけではないのだ。なにかを削って差し出されることはなく、またわたしの方からなにかを渡すことも出来ない。断絶はどうしようもなくさみしいことであるけれどその一方で希望でもある。
そこに居てくれさえすればいいと相手に思っているのに、これ以上のことなんかあるか。ないだろう。ないに決まっている。飽き性の代わりに1年熱が続けば、下手すると一生患う可能性を視野に入れる必要があるわたしはそろそろ、おーかねひらくんをずっと好きで、ずっとまともに顔を見えないまま、でもずっと好きでいることを覚悟しなければいけない。