スクリーンとしての本
初めての歌会は、『湖とファルセット』(2022)の田村穂隆さんにお声をかけて開催日を決めた。初めてのことをひとりでするのは心細いから。
募集は田村さん、日下を抜いて5人。くらい。田村さんが来られることを募集のポストに記載していたからか、すぐに定員が埋まる。お一人、体調が悪くなったとのことで欠席がでたので追加で募集をかける。すぐ埋まる。応募が2名。田村さん、未完成食堂のあるじとも相談して、せっかくなのでお二人共に来ていただく。
今回は参加者の半数、4名が県外からの参加になった。いちばん遠くは、なんと神奈川から。そして鳥取から。こんな小さな店を目指してきてくださる。そして半数4名は歌会が初めての方、そのうちのお一人は短歌自体が初めての方。初めての歌会のかたも初めての短歌のかたも、すすんで発言してくださる。
主体がどんなすがた、どこにいるのかが見えにくいものは解釈が難しいというはなしになる。たとえば電車の景を読むときに、ホーム、車内、線路上など、どこに作中主体がいるのかわかるようにすること(一首中でなくても連作上でも)で臨場感がでるというような……逆にこれを意識的にぼかすとどういう効果がでるのかなと思ったり……
書く人、読む人
いちばん大きな時間を割いて話し合ったのは、歌の解釈のはばをどこまでよしとするか、というところ。今回はコスモス、塔という短歌結社に所属している参加者がいた。(※ざっくりいうと全国規模の短歌サークル、みたいな感じ。ざっくりとね)結社によっては読み筋は一つになるように詠むことがよしとされているということが共有されて、そこから話しが盛り上がる。詠みたい景とあまりに違う景しか読み取れない場合は歌が成功していない気がするという話や、読みの可能性が複数あることで多層的な読み方ができるようになり、「一粒で2度美味しい」という考えがいわれたり。
歌は、というか全ての言葉は、いちど他者に共有されたら作者の手を離れてしまうと思う。読み手の読み方を、書き手が最後までつくることはできない。いちど共有された文は、もう受け取るものの手に渡されて、その読みは読み手に任される。と思っている。
ここで、面白い言葉が提示された。「うちなる本」「スクリーンとしての本」。読者論にかかわる用語だろうか。読み手は、本(ここでは歌)に自分自身を投影する。また、自分の中に本(ここでは、歌の景)を生み出す。というはなし。
本や文というのは、媒介であり、作者そのもの・作者の意図そのものをダイレクトに伝えるものではない。書くときの意図というのは、読むときに必ずしも再現できるものではできるものではない。読む人は文に自分や自分の経験を投影する。それをコントロールすることは必ずしもできないが、自分が見たもの、感じたこと、読みたいことを伝えようとすることを放棄してはならない、という考えも理解できる。
どこまで読者を信じられるか、どこで自分の作品を手放すか、みたいなことまで考えが及んだ歌会だった。
データ
1/28(日)10時〜13時、終了後行ける人で昼食へ
参加者/相地、潮未咲、日下踏子(司会)、黒兎、斎藤美衣、田村穂隆、中村恵、西村鴻一、吉田縫(五十音順)9名
おみや/貝殻節最中、はとサブレ(ありがとうございます)
●未発表扱いの歌会だけど、それぞれの歌から名刺をひとつだけメモしておきます。靴下、抱き枕、体躯、地下鉄、一畑電車、白菜、宝石、海、目蓋(掲載順)
こういう歌会
青と緑の歌会では選はない。漢字を確認して、一首ずつ読み上げたら、詠み手は伏せたまま順に一首評をしていく。その後は詠み手を公表し、できたら作歌意図をすこし明かしてもらう。それだけ。自分では日本一敷居の低い歌会かもしれんと思っている。