わたしはターキーサンドイッチを食べている。大学病院のなかにあるカフェ。家の近くのカフェにいこうとバス停にいったのに、「今朝発生したシリアスアクシデントにより道路は封鎖されました。」というサインがあった。そこから仕方なくバスループまで歩いているうち、空腹が限界をむかえてしぶしぶ、一度だけいったことがある病院のカフェに入ることにした。
病院のなかなので、まだ少しコロナのにおいが残っているみたい。席についていないときはマスクをつけてね、というサインだったり、店員がマスクをしていたり、青緑色の看護服に身を包んだ看護師らしきひとが昼ごはんを買いに来ていたり、そういえば一度日本で高熱がでて救急外来にいったとき、はじめてみる防護服につつまれた人たちがわたしを対応してくれたのを思い出した。
コロナがあって、わたしたちの生活は今までとは違うものになった。大学はオンライン授業になり帰国し、会いたいひとには会えなくなり、一日に一度も家から出ない日がないわたしは家にこもるようになり、色々なものがギクシャクしたあの期間。必要最低限の生活をもとめられることで、わたしの優先順位とあなたの優先順位がはっきりとうかびあがり、懲りずになんどもコロナにかかる人たちを少し軽蔑し、それでも心配しないといけないのはどうして?。AだからBじゃんね、といったシンプルさで笑うことができない、なんとか、とりつくろって、うまく、やり過ごしていくことで時間をまつこともあったなあとその整っていないことからくる格好のわるさから、わたしをつくるものからこっそり取り除いていたことも思い出す。
あなたはわたしを映す鏡。以前コーチにおそわったそのことばは、わたしが誰と、例えば好きなひとだったり、気に食わないひとだったり、馬鹿騒ぎできるひとだったり、話すときに身構えるひとだったり、そういったどんなあなたと話していても、そのあなたにはわたしが映っているし、わたしの思う「好きな」「気に食わない」あなたは、わたしの見る世界のなかのあなただよ、ということを言ってくれている。それに、あなたに嫌なところをみるとき、それはわたしがわたしから取り除いた、あの格好のわるいものたちのことかもしれないし、いまの嫌なあなたは、明日のわたしかもしれない。もちろん、あなたの好きなところはわたしの好きなわたしかもしれないし。
そうおもうと、いまのあなたにはやさしくできなくても、距離をとりたいとおもってはなれても、明日のあなたにはそっと寄り添えるかもしれないし、たとえば数十年後、コロナのような多くの人の日常が変わるときに、あなたがわたしを助けてくれるかもしれない。みんな平等で等しく好き、というわけではないのだけど。だからいま、目の前のあなたの目をみて、昨日のあなたと明日のあなたを待てるひとになりたいな、というはなし。病院がしずかで長く書いてしまった。