美しい名の文鳥が一羽、死んだ。
愛する小鳥を失った悲嘆のほかに、飼い主を苛むのは後悔であった。ものを言えない小鳥の異変にもっと早く気づいて獣医に診せていれば、そういえばあのときの仕草は体調を崩す前兆だったのでは、健康に良いと聞いて与えていた栄養剤が却って悪かったのでは…文鳥の姿かたちを思いおこすだけで、その後悔の念は尽きせずからだへ流れ込み、肺の底から息苦しくなった。
飼い主の前に現れたのは悪魔だった。
文鳥を亡くす前のあなたに会わせてあげる。会ってこれから起こることを全て話せば、過去のあなたは死の運命から助けることができるだろう。ただし、文鳥の命が助かればその死を悼むあなたも、あなたのいるこの世界も消滅して初めからなかったことになる。それでも良いなら…と悪魔は告げるのだった。
小さな、愛情深い小鳥はもはや飼い主の一部となっていた。文鳥のいない世界に生きていても何も意味がないと飼い主であった人間は心から思っていた。
飼い主であった人間は、一も二もなく承諾した。
こつん、と、卵が割れる音がちいさく響いた。
美しい名の文鳥が一羽、死んだ。
わたしは数年前に見た妙な夢のことを思い出していた。
夢に未来から来たというわたしが現れて、いますぐ文鳥を病院へ連れて行けという。お陰でその時は病気を発見することができたのだったが。
その後歳を重ね、通院を繰り返し文鳥は死んだ。
仕事で不在にしがちになってもっと家にいてあげればよかった、小鳥の面影を後悔で脳が痺れる。
泣き濡れているわたしのもとへ、悪魔が現れた。
悪魔の話を聞くと、あの夢のことも全て合点がいった。
今のわたしがいなくなっても、ほかの世界のわたしがあなたに会うことができるなら…答えは一つしかなかった。
こつん、と、卵が割れる音がちいさく響いた。
飼い主の戻りを文鳥は待っていた。もう千年もこうしているような気がしていた。
もちろん文鳥が不老長寿になったのではない。飼い主のよこしまな願いが叶えられるたびに、文鳥の時間はすこしずつ延びていたのだ。スナップ写真をおおきくおおきく引き延ばすように、文鳥の時間はいつか尽きるはずの寿命の中で、無限に延び続けているのだった。
それでも文鳥そのありさまは、かつて飼い主の家で留守を守っていた時とあまり変わらなかった。食餌を口にし水を飲み、気持ちよく空間を羽ばたいた。
時々、自分以外にもこうしている文鳥がいることに美しい名の文鳥は気がついた。文鳥たちはみな各々のかいぬしの名前を呼び、夜昼なく空を飛び交っているのだった。
自分を愛した人間が分岐と消滅を幾度となく繰り返し、いまや時空の大海を小枝のように漂う存在となったことを、小さな鳥は知るよしもなかった。
すみれ色の声で、美しい名前の文鳥はかいぬしを呼んだ。夜明けを告げる鐘の音のように、それはほのぼのと世界へ響いた。