禅問答はなぜあんなへんてこな質問をするのか

shueshueshu
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公開:2026/3/26

これは小学五年生の私が祖父母の家で見つけた、古びた雑学の本で見つけたトピックであった。

禅問答とは、禅宗で師である僧侶が修行者に投げかける難解な問いかけのことであるらしい。実例(公案)としては、「両掌打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提せよ(両手で手を打てば音がするが、片手で手を打った時の音はどんなものか説明しなさい)」などがある。どれも、人生経験や学問の知識によるだけではとても答えることのできない質問である。

この一問一答形式の本には、その回答として以下のような内容が記載されていた

”人間が生きていくなかで勉学や実体験を通じて身につけた、獲得したと考えている知識は、すべて他者からの借り物である。悟りを得るにはそれら借り物の知識ではなく、真に自分の中にある知恵だけで考えなければならない。修行者には借り物の知識の空虚さを知り、丸裸になった精神で問答と向き合うことが求められる。これが禅問答が用いられる理由である。”

これは当時の私には大きなパラダイムシフトだった。執筆者が仏教関係者であったのかも、本の記載が禅問答に対する正しい認識であるのかも今となってはわからない。ただ、表記されていたことばは、小学五年生の私に激烈な印象を残した。なぜ塾や学校へいって勉強するのか、なぜテストでよい成績を取らなければならないのか、そしてなんのために受験して高校大学へ進学し、勉強を続けなければならないのか、何もかもががわからなくなってしまった。

私はあまりに感動しまた混乱していたため、家に戻るやいなや小学校を卒業したら出家したいと母親に言いにいった。母親からは教育費を返せと叱られ気絶するまで殴られた。

このときの出家願望はまったく一瞬のガキの気の迷いであり、その後の私は普通に受験を通じて高校大学に入り、入職試験を受けて就職し、職を辞めた後も試験勉強をして取得した資格で自営業を続けている(そして無宗教者である)。なんのために真面目に勉強していたかと聞かれれば、正直生計をたてるためとしか答えられない。その中でも学ぶことへの空虚さは、あの本を読んでから三十年近く経った今もつきまといつづけている。

組織で責任が増えるたび、資格を取るたび、自分自身の中身のなさを思い知らされてきたし、気がつけば知識の贅肉をつけて身動きがとれず、おのれの力で考える力も衰えて途方に暮れている中年となっていた。

人間にもし魂というものがあるのなら、それは器の形をしていると思う。

生い立ちや境遇によってさまざまに形づくられた器。その器にしっくりくる借り物の知識を探してきて乗せてみたり、時々すげかえたりすることが思想、思索であるとするならば、それは虚しい行為のように思う。

戦争や不景気や嫌なことばかりの時代、SNS上での膨大な、そびえたつクソのような知識にとり囲まれている今だからこそ、一人になって考えなければならない事項はどんどん増えている。こんな時ほど孤独になって、冷淡に、沈黙して考える時間が重要ではないか。

かっこつけて書いているが、こんな文章ですら脂汗をかいて、脳みそをしぼって悩みながら書いている。ひとりぼっちで考えるのはものすごく苦しく、自身の矮小さ、つまらなさを突きつけられ、押しつぶされそうになる。このまま圧縮されて日本海油田の石油になれたなら。