プルーストのようにマドレーヌの香りから遠い昔の記憶を蘇らせることがあるだろうか?記憶には昔から関心があった。私が感じている〈私〉は、記憶が無くなればどこに行ってしまうのか。もっと言えば、〈私〉は記憶そのものなのだろうか、という問題。
記憶が失われることは認知症とされ、病にカテゴライズされている。記憶は保持されていることが前提にある。思うに、記憶には2種類ある。〈認知される私としての記憶〉と〈認知する私としての記憶〉である。
前者は社会的な私と言える。他者に〈私〉として記憶されていることを記憶してる〈私〉である。identifyされる私。二人称と三人称の私であって、他者から呼ばれる〈私〉となる。
一方、後者は、主観的に私を私だと認知してる〈私〉である。これは〈私〉のことをすべて知っている(恥ずかしいことも他者に知られたくないことも含めたすべてを)自分のことである。全存在としての〈私〉と言える。
記憶の総体としての私が無くなるのは、〈認知する私としての記憶〉が無くなった時である。〈認知される私としての記憶〉は私の記憶がなくなっても記憶され続ける。要するに他者が私のことを認知してるからである。本人が〈私〉の記憶をすべて忘れたとしてもidentifyされた〈私〉は残る。その証拠に認知症になった父親のことを他人と思う子どもはいない。ただ、当人は自分が誰か忘れてしまっているだけである。〈私〉は私の記憶が無くなっても消えることはない。〈私〉とは主観的な〈私〉よりも社会的なidentifyされた〈私〉の方が息が長く、私の記憶が無くなったくらいでは死なない。
一人称の私は確かに記憶の総体で、過去を失った時に、いまの〈私〉は消える。それは死と等しい。それは間違いのないことだが、記憶のない私はもとの記憶の私を認知することはできない。つまり、記憶のない、総体を失った〈私〉というもの自体、矛盾した概念であることがわかる。記憶のない私を認知することはできない。死んだ自分を知ることがないように。
だから、認知症を恐れることも今の〈私〉にとっては意味のない、矛盾する概念の心配をすることでしかない。未知を恐れるのは人の性だが、無意味なことは無意味でしかない。
主観的な〈私〉の記憶は記憶があるうちには無くならない。記憶が無くなったら、そのことを考えるのは〈私〉ではない。後は野となれ山となれ。そういうことになる。