社会学的知識はほぼないので、社会学で言うジェンダーがどんな歴史的経由で語られてきたのかは知らない。ただ、最近このジェンダー関連、特にLGBTやフェミニズムの文脈で語られる内容にいささか、面倒に感じ始めたので書いている。
ジェンダーは社会的な性として認識される、抽象概念で、それは社会的な関係性によって定義される。つまり、生物学的な性ではない性の定義なわけだ。
これってかなり倒錯的な話じゃないか。人間を男or女に分ける際に、抽象概念が選択されているということだ。そんなのはなんでもありに決まってる。心は女性で身体は男性だと思ってる女、というのもあり得る。だって、個人の抽象概念で出来上がったものを、他者が認めさえすれば、それはジェンダーとして認められるから。要するに、個人が適当に考え出した(当人にとっては真実だと感じられている)性なるものを社会的に認めさせれば、新しいジェンダーが生まれるということなんだ。
さらに問題をややこしくさせてるのが、社会的な関係においてジェンダーによって差別されているという点。女だから差別されたり、ゲイだから偏見をうけるという問題。これってジェンダーという抽象概念を自他共に認めることによって、差別という構造が出来上がってるということなんだよな。差別は差別される側もその差別の正当性を黙認していることで生じると思う。
整理すると、
①ジェンダー=抽象概念
②差別=ジェンダーを自他ともに認め合うことで生じる
ということになる。
俺が思うに、人間においてジェンダーは認めないほうがいい。社会的関係において、「仮」に採択されてるだけであって、そんなものは一般に生活する上でクソの役にも立たない。ジェンダーなんてクソ食らえ、という精神が大切になる。
なぜなら、人間において抽象概念は常にその生活から遊離してるものだから。地に足がついてないのである。抽象概念は概念操作でいくらでも取り扱うことができる。要するに、人によって様々に扱えて、如何様にも解釈ができてしまう。
これではただのケンカの道具にされるだけである。フェミニストは政治運動の道具として、あるいは、自分の食いぶちとしてジェンダー概念を引用する。差別主義者は自身の自尊感情を上げるために他者をぶちのめす。その矛先にジェンダーを利用する。他者をコントロールするためなら人はなんでも生み出すし、なんだって利用する。人間にとって性は根源的なものであり、様々なコンプレックスに彩られているため、動因となりやすい。それを刺激するためにジェンダー概念を持ち出してるに過ぎない。
ジェンダーなんてものはない。人間にはちんこがある奴とない奴がいるだけだ。あるいは、まんこがある奴とない奴がいるだけだ。それ以下でも以上でもない。そこに優劣や価値観、社会的な階層、機能的な見方を挟まなければいい。抽象概念ではなく、ちんことまんこという具体物に則して考えること。即物的なジェンダーを忘れてはならない。