言葉を書くことは、叫びに似る

思考α日記
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書くってことは、その言葉に、自分の魂を少し入れることだと思う。大袈裟すぎるが、言霊っていうのは、書き言葉であっても出るものだ。書くことはすなわち、自分を読むことであって、言葉に責任を持つこと、言葉を社会化することだ。これをすると腹が座る感覚を覚える。他者に対してものを言う下準備ができる感じだ。

俺の言葉は常にびびってる。何に?世の中に。俺の言葉は誰にも届かないんじゃないかと、身体に閉じ込められてるんだ。窮屈な言葉たちはいつも出口を探してる。だから、俺は何かしらの言葉を吐く。ただ、吐くだけでは言葉に悪い。丁寧に整えて、俺の感情や感覚を包み込むような、衣装を着せて発音する。

俺の喋りは美しくない。その自信がある。抑揚がなくリズムが悪い。相手に伝わる強い意志を感じさせる何かがない。これは欠点だろう。ただ、本当にそういうものがないとは言えない。あるけど出ない。表現されない表現。これを出したいが、どのようにすれば出せるのか、皆目検討もつかない。何が俺を拒んでいるのか。思想か、過去の記憶か、自意識か。本当に窮屈だ。言葉を叫びたくなる。月に向かって吠える、というのは比喩ではなく、願望であったんじゃないかと思う。月にしか託せない想いがある。叫びは想いよりも深く、分化されない気持ちの発露だ。月には叫びが積もり積もって黒い岩になっている。

詩。表現とは魂の分割なのではないか。詩をつくるとその分身体が軽くなる。詩の重さはどのくらいなのか。俺の身体から言葉が抜けていく。言葉の重みが肩からずり落ちていく。