論破について。論破は人の論の綻びを攻撃して論を崩すタイプと、論を自分で構築してその妥当性、信頼性を元に相手を説得する2つのパターンがある。某ひろゆきは当然前者のタイプ。他者の論の矛盾点を指摘する。
論を破るとは、既成の論を破壊することと、既成の論とは別軸の論を作ることがある。その内、より創造的で発展性のあるのは自分で論を構築して、既成の論を打ち破る、あるいは、自己規定をそちらの論に合わせていく方がいいだろう。
要するに、論を構築するとは、人は人、自分は自分という認識を持つための確固とした軸を持てることにつながる。
あなたはそう思うんですね、私はこう思います。この裏には各人がその生活史のなかで作り上げた論理が衝突している。論を述べるのが論破ではない。人はすでに何かを表明した瞬間に、論理を司っているわけである。
世間とは別軸に自分だけの論を持つことは、自分の評価軸を他者から自分にスライドさせることができる。これが利点。
人間はbotだ。喋る機械。その機械には一定の文法があり、システムがある。コンピューターのような数式で表されるものではないため、謎に包まれている。だから、人が話すときはbotが話す、と思う時が多々ある。脳ではなく、脊髄で話すような人がいる。
独特の論理で動くbot。それが人間。聞くに耐えないbotもあれば、なかなか良いことを言うbotもある。bot同士の会話は相手のシステムを認めるか否かにかかっている。その時の評価軸は、多くの人にとって自分のシステムとどれだけ似ているか、というものになる。類似性を高く評価する。これは自己愛の問題である。言語の違うコンピュータ同士は接続が不具合になる。JavaとC言語では機能が異なる。
論理を扱うのは人間ではなく、botであり、人間はbotに支配されている。では、論理の元と言えるような、全ての論理を司る絶対論理があるものなのか。これを分析しようとしたのが精神分析であると思っている。