男も女も星の数ほどいるんだから、1人の相手に執着せずに恋愛をしたほうが、むしろうまくいく、という思想は完全に間違っている。
なぜなら、それは恋愛ではないから。恋愛を捨てて、ちんこをまんこに入れる、あるいは、まんこにちんこを入れるゲームがしたい人間であれば、その思想をとるといい。ただ、恋愛を望んでる人、その人がいるだけでこの世で自分が生きていても悪くない、そう思えるような相手に出会いたいと思う人にとっては、そんな思想はクソ以下だ。
異性を量産品のように考える思想の裏には、その人の個別性の排除がある。しかも、それは「見た目」という外見の排除もある。つまり、「星の数ほどいる論者」は異性の外見の美しさすら排除している。これがこの話の中核、キモである。
男であれば、女の外見ですら取り替え可能な、どうでもいい変数として扱うことになってしまうのである。「女」というカテゴリーのみで相手のことを考えるとしたら、そりゃあ「女」はいくらでもいるわけである。「可愛い女」というカテゴリーでみれば、これも大量にいるだろう。要するに、カテゴリーに恋をしている場合のみ、「星の数ほどいる論者」は誕生する。恋愛は定義として取り替え不可能な相手としか成立しない。まんこをただ求める男はその瞬間から恋愛から疎外される。
「自分のことを尊重し、自分も相手を尊重する」関係は取り替え不可能である。なぜなら、尊重は相手のことを唯一無二の存在であるからこそ、慈しみ、愛することによって成り立つからである。これが伝わらないのであれば、自我が固すぎるゆえに、自分を相手に曝け出さない、ゆだねることのできない男でしかない。
外見で相手を選ぶことは決して悪いことではない。問題は「外見」というカテゴリーで相手を選ぶことにある。
分かりにくいが、外見はその人独自のものであって、カテゴライズされてるものではない。「あなたの目が好きだ」ということは、「この世で唯一の目を持つ普遍的な存在であるあなたが好きだ」ということと同義なのである。
この普遍的な相手、外見であれ性格であれ、これらをカテゴライズすると、、ひとたび「女」や「可愛い女」「性格のいい女」になり変わる。この変換を許す精神、人間の不変性をカテゴライズする精神、これこそが恋愛を不可能にする精神なのである。
恋愛は無数の星の中から相手を選ぶのではない。「自分にとって最も光輝く星」を、星々が無限にあるこの宇宙から選びとることにある。たとえ、その光がすでに死んだ星からの、過去からの光であっても、人はその光によって照らされ、永遠の幸福の中に、あたたかい想い出に包まれて、光の中で恋をすることができる。