祖父母の遺品整理で地獄を見た母と元々持ち物の少ない父の暮らしている実家は帰る度にどんどん片付いていってて、最近はもうモデルルームみたいになってる。今回の帰省時はリビングのゴミ箱の位置がわからず何なのこの家!?と叫んでしまった。巨峰を貰って帰る。うまい。
『カラマーゾフの兄弟』をやっとこさ読み終えた。名訳と噂の江川卓訳が文庫化したということで手を出してみたんですが、ここまで長かったぜ。以前は岩波文庫か何かで読みかけて途中で挫折した記憶があるので今回は最後まで読み通せてよかった。名作はやっぱり名作なんだなあと当たり前のことを思う。四巻まで読んでみて最後まで印象に残ったのは一巻のかなり序盤で幼い息子を亡くした母親が登場するシーンだった。母親の嘆き方が本当に涙が出そうになるほど切実で、どうしたらこんな風に書けるんだろうと思っていたらドストエフスキー自身がまさに幼い息子を亡くしていて…………。激動の人生だ。
カラマーゾフの兄弟 1 -ドストエフスキー 著/江川卓 訳|中公文庫|中央公論新社
父親殺し繋がりということで(?)今更ながらソポクレスの『オイディプス王』も読んだ。あらすじは知っていたがそれでも面白すぎる。古典なので生きていたらネタバレをくらってしまうのは仕方ないけど、何も知らない状態で味わってみたかったぜ。
ソポクレス オイディプス王/藤沢 令夫|岩波文庫 - 岩波書店
ところで名訳、優れた翻訳とは何なんだろうと考える。原文の内容を誤りなく伝えるというだけではおそらく不十分で、原文の持つニュアンスを再現できているか、文章として読みやすいものであるかみたいなことも重要なんだろう。そもそもある言語の文章を他の言語へ訳そうとする時点で、訳しようのない部分や訳したとて読者に理解できない部分が多々出てくるのは避けようがないし、その辺りをいかにうまく処理できるかみたいなところも翻訳者の技量になってくるはずだ。が、私には翻訳文を読んだところでそれらが果たされているのか判断できない。できることと言えばせいぜい文章が自分にとって読みやすいかどうかを判断するくらいで、訳が不正確でもニュアンスを伝えられていなくても見抜きようがない。ある翻訳が良い、優れているとされるとき、そのように判断する人は何をもって判断しているんですかね? やっぱ原文なりテクストを読めることが第一条件になるんだろうか。そらそうと言われたらそうなんですが、そのようにして読める人が必ずしもそのテクストについて同じように解釈をしているとは限らないなかで、それでも誰か一人の解釈によってなされた訳が名訳として一定の合意を得ていくというのがなんだか不思議なことというか面白いことだなと思うんですよ。何を言ってるのかよく分かんなくなってきたが、まあまたそのうち考えましょう。