さむい。本屋に行った帰りに、歩いて帰りながらこれを書いている。北海道の地元ではこの季節に素手で携帯をいじるなんて自殺行為だけれど、東京であればリストカットくらいの危険さな気がする。とはいえ、手指を軽くかじかませながら書いている。やっぱりさむい。
最近発売された本と、最近話題になっている小説が欲しくて本屋に行ってきた。目当ての本自体はあったものの、結局何も買わずに本屋を出てきてしまった。紙の状態の本を、読める自信がなかったからだ。
紙の本の、ひらくときの感触がすき。紙の匂いがすき。目に入ってくる流れるような文章がすき。出版社やレーベルそれぞれで違う書体がすき。くせのある明朝がとくにすき。読んでいくうちに残りのページが減っていって切なくなるのがすき。すきなシーンをすぐに索引できるのがすき。後ろについてる本の広告がすき。最後のページをめくる時の、少しのさみしさがすき。
紙の本のすきなところなんていくらでも言える。数年前まで、電子書籍なんか目もくれてなかった。
なのに、今では電子書籍化を待ち望むほどのヘビーユーザーになっている。
時は金なり。タイム・イズ・マネー。時間は、金で買えない。本を買いに行く時間も、紙を開いて読む時間も。
田舎にいて、車があったころ、本を買いに行くのがこんなに貴重で贅沢な時間だなんて思わなかった。毎週のように、休みのたびに、あるいは仕事帰りにさえ、近くで一番大きな書店に暇さえあれば行っていた。一番大きなサイズの紙袋をいっぱいにして、時には重さで底が抜けないようにと店員さんが二重にしてくれることもあるくらいだった。そのくらい、本屋に行くことも、そこで本を選ぶことも、本を読むこともすきだった。
だから、仕事が忙しくて、おまけに終わってからでは到底間に合わないくらいの場所にある本屋に行くことは、とても貴重なことなのだと思う。
本を読むこともそう。きちんと本を支えて読もうとすると、両手が必要になる。片手で読める人もいるのだろうけど、私にはできない。暗い場所では読めないし、寝ながら読むのもなかなかに困難を極める。腕が疲れるし。
今や本を読んだり、買いに行くことはすごく貴重で贅沢なことのように思える。だからこそ、忙しない現代人であるわたしは、電子書籍を選んでしまいがちになる。
読む場所を選ばない。すぐに買える。ただそれだけのファストさが、わたしには必要すぎた。
最近では、本屋に行くことは少なくなった。本にかかるお金は、今までと変わらない…どころか、むしろ多くなってすらいるのに。ほとんど全ての本を、電子書籍で買うようになった。
それでも、やっぱり本屋に行ってしまうのは、わたしは本だけじゃなくて本屋のこともすきだからだと思う。
本がたくさん並んでいる場所がすき。本に囲まれる、知らない本に出会える、たくさんの出会いで溢れてる、あの場所が。
たとえ紙の本を買うことが少なくなっても、私は本がすき。紙の本も、電子書籍も、等しくあいしている。自分の中からどちらの存在も失くしたくはない。
どちらのことも、等しくあいしていたいから、わたしはやっぱり暇があれば本屋さんに行ってしまうのだ。
なお、わたしはたぶん、世間で「読書家」と呼ばれるほどには本を読んでいない。村上春樹も読んだことないし。すきな本しか読んでこなかったから、すきな本のことしか知らない。本がすきだけれど、すべての本に興味があるわけじゃない。
でも、やっぱり本をすきな気持ちに嘘はないし、たとえ一冊しか本を読んだことがない人でも、その本がすきなら「本がすき」って言っていいと思う。というか、言わせて欲しいな。
ということで、緊張しつつ、でもすこしばかり胸を張って、わたしは本がすきと言い続けていこうと思う。