スマホの背面に祖父と祖母の写真を挟んでいる。写真が高価だった時代の、白黒の写真。祖父は証明写真のような写真で、孫の目から見ても中々ハンサムである。祖母は少し斜めを向いた、良いところのお嬢さん、といった写真。祖父は分からないが、祖母は写真裏に二十三歳、と書いてあった。
祖父母の、それこそ母が生まれる以前の頃の写真が残っていることは全く知らなかった。祖父が他界し約十年、祖母は約一年。祖母を介護していた叔母夫婦が自分達のマンションに戻ることになり、住む人のいなくなった祖父母の家を売却することとなってはじめて、叔母が遺品整理を進めてくれたおかげで、古いアルバムの存在を知った。
祖父が写真やカメラが好きだったからか、沢山のアルバムがあった。祖母も写真を好きだったから、保存状態は比較的良い状態で、沢山の知らないことがアルバムに詰まっていた。祖父の海兵時代、祖母の女学生時代、母達の幼少期、それぞれの結婚式、孫の誕生、成長。たまにアルバムに一言書いてあり、祖母や叔母が書き込んだもので、その一言がより一層祖父母や母達が重ねた月日を鮮明にしていた。
皮肉なことに、祖父母に関して亡くなってから知ることの方が多かった。一緒に暮らしていた時期もあったけれど、私が知っている祖父は茶目っ気があってくりくりのおめめの、写仏が趣味で何歳になっても現役商人の、相撲やお風呂が大好きで、孫も子供も大好きな人。若かりし頃は怒りやすく気難しい人だと聞いていたけれど、私は穏やかな祖父しか目にしなかった。海兵で父島に行っていたことは知らなかったし、祖父の実家が時計屋だということも、祖父の母が反物屋だということも何一つ知らなかった。
祖母は、心配性な人だった。文学少女で、映画が好きで祖父と映画を観に行ったけれど、祖父は寝てしまったとか。テレビが好きで、嵐が好きで、一緒に暮らしていた頃は嵐の番組を一緒に見て楽しんでいた。可愛らしい人で、知的好奇心が旺盛で、卒寿を超えても携帯電話を使っていたし、新聞の切り抜きを沢山溜めていた。物が捨てられなくて、食べることが好きで、意外と頑固。でも頑固なのは祖父もだったみたいだから、似た者夫婦だったのかも。祖父が他界したあと、本当に寂しそうだった。愛に溢れた人。祖母の結婚指輪は菊の彫りがなされていたらしいけれど、そのデザインももう誰も知らないし、私が生まれたときには既に彫りがほぼ掠れて消えるほど、祖母は生涯指輪を外さなかった。美味しい緑茶の入れ方を教えてくれたのも、祖母だったな。祖父のために、祖父の好物をよく作って、家計を助けるために編み物教室を開いていたらしい。祖母の影響か、母は編み物の先生の資格を持っている。親を早くに亡くし、兄が育ててくれた、兄は立派な人だった、とよく祖母は口にしていた。
体が弱い祖父のために、海辺の近くに引越しをし、海風のおかげが大分丈夫になったのだ、と聞いた。そんな、愛と思い出が沢山詰まった家。祖母の遺言で、親戚に確認を取ってから売却の流れとなった。家がなくなるのは、二度目の経験だが、やはり寂しさはある。私が住んで管理できたらよかった、と考えもしたが、仕事や固定資産税、家の管理を考えると現実的ではない。
数日後、仕事終わりにすぐ帰省し、祖父母宅で親戚が集まって最後の晩餐となる予定だ。沢山の思い出が、語られるのだろうか。おそらく私達の代で途絶えてしまうけれど、最後の代として、知れる範囲のことを知っておきたいと思う。私の中に、祖父母が息づいていると言えるようになりたい。