親指に激痛が走った。どうせボロボロになるから、と新しいのを買うのを我慢して使い続けていた新聞配達用の靴に、気が付かないうちに穴が空いていた。靴の先に穴なんて。その穴から、靴下を履いているとはいえ、親指がすっぽり飛び出してしまっていた。白い靴下に血が滲んでいて、怪我をしていることはすぐにわかった。けれど、寮に帰って部屋で靴下を脱いだら、親指の爪がごっそり剥がれていて、想像していた以上の怪我に、流石に狼狽えてしまった。
私は何をしてるんだろうと思った。夢を追いかけて入学した音楽学校はわけのわからない授業ばかりで、将来なんて何も保障されてなくて、そういう現実にようやく気づけた時は、もう私は学費返済のために、生活のために、学校に通うために、肉体を酷使することから逃れられなくなっていた。循環なんてなくて、ただ底に落ちていっていた。蟻地獄だった。
爪が剥げた足の親指は、私が目を背けていた何か全てを突きつけてきた。コンクリート剥き出しの寒々としたこの部屋の隣の部屋からは、先に配達を終えた私より若い学生のいびきが聴こえてくる。シャワーを浴びたかったけれど、その気にならなくて、でも体にこびりついた汗が気持ち悪くて、臭うし、どうしようもなかった。どっと疲れが出た。時計を見るともう6時過ぎだった。学校は10時からだけれど、今では何のために通うのかもさっぱりわからなくなってしまっていて、私はまた無断欠席するだろうと思いながら、冷たい床に横になって眠ってしまった。
目が覚めたのは昼過ぎだった。部屋に置いてある小さな電子ピアノが、陳腐な物にしか見えなくなっていた。けれど、毎日触り続けないと、私の今までの努力が全て否定される気がして、怖くて怖くてたまらない。音が漏れないように繋げたままのヘッドホンを耳に当てて、ただ一音、力無く鳴らした。このドの音は、きっと誰かにとってはソかもしれなくて、きっと誰かにとってはファかもしれないのに、と思った。雨が窓に当たる音を得意げに「あ、この音、ミですよ」なんて他の寮生に言った過去がとても恥ずかしくなった。なんて傲慢なんだろうと思った。
スマホを見ると、学校からの着信があった。かけ直さなかった。どこまでもだらしなくなっていた。でももう無理だった。
立ち入り禁止の屋上に行った。立ち入り禁止のくせに、行こうと思えば簡単に行ける屋上。ドアノブの鍵は内側の私たちに解錠を委ねられていて、危険性は野放しにされていた。そんなもんだよな、ここは、と思った。
ドアを開けて外に出ると、じめっとしたぬるい空気が纏わりついた。雨上がりだった。相変わらず足の親指は鈍く痛くて、でももうどうしようもないから、どうでもよくするしかなくて、どこまでもどこまでも、私は馬鹿だと思った。フェンスに近づくと、ゴキブリが一匹裏返って死んでいた。蝉じゃないんだ、と思って、そんなのにも慣れてしまっている自分が、悲しかった。
立ちすくんでいたら、カレーの匂いがしてきた。ああ、そうか、今日は金曜日か。寮生の間ではまずいと評判の寮母のカレーの匂い。ただのカレーなのに、酸っぱいと教えてもらってから一度も食べたことがなかった。
お腹が空いた。部屋に戻ってカップラーメンでも食べようと思った。屋上から室内に戻ると、カレーの匂いが濃くなった。寮母の鼻歌が聴こえた。とても明るくて、とても音痴で、とても耳障りだった。学生が「何の歌ですか?」とあどけなく聞いている声がした。私はその答えを知りたくなくて、早足で自室に戻った。足の親指が痛みで疼いた。全部、腐ってる。そう思った。
夕刊までまた眠ることにした。雨音がし始めて、最悪だと思った。窓に当たる雨の音は、やっぱりミだった。