何かを誘惑するかのように、自身のふっくらとした口元で無意識に動かされる彼女の細く白い指に、私の好物のブルーベリージャムを絡ませたいと考えてしまった、冬が終わりを告げようとする3月。外が暗くなると窓に映し出される裸の彼女は、いつものように私と目を合わすことなく物憂げに何かを見つめている。彼女が醸し出す退廃的な美は、日に日に輝きを増し、息を飲むほどで、毎夜、私は彼女にたまらなく魅せられていた。
彼女に気づいたのは去年のクリスマスの次の夜だった。庭の木に飾り付けたままの、電源が切られているイルミネーションをいつ片付けようかと思案し、その木を見ようと窓に目をやると、そこに彼女が映っていた。私に違和感を感じさせないほど彼女は自然に窓に佇んでいて、そのせいか私は不思議と特に何の疑問も持つことなく彼女を認めたのだった。今思えば、私は心のどこかで、この日が来ることを待ち望んでいたのかもしれない。
彼女は少女のような華奢な身体つきではあるが、十分に大人の女性の色香を纏っており、長く艶やかな髪で隠れた小さな乳房や細く長い手足に、私は惹きつけられるばかりだ。私がどれだけ彼女を見遣っても、彼女と目が合うことはない。彼女は私に気づかないまま——気づけないのかもしれないが——視線をどこか遠くにやって、ぼんやりとしている。彼女が何を見ているのか多少気になりはするが、きっとそれも、少なくとも私の周りには不在のものだろうと悟った。
この世に彼女が実在するのかどうかは判らない。しかし、外の闇が濃くなるほど、窓に映るモノトーンの彼女の輪郭は、その存在を主張するかのように明瞭となる。何をするでもなく物思いに耽るような彼女が時折見せる悲しげな微笑みには、モナリザのそれよりも価値があると思えるほど魅力的だ。
私は特に、彼女が口元で指を動かす仕草が好きだ。エロティックな暗喩のような、何か含みを持つその仕草から静謐に放たれる艶かしさは、私を激しく誘惑する。私はふと、その指でブルーベリージャムを舐めて欲しいと考えた。モノトーンでもわかる彼女の肌の白さ。同じくその白い指に似合うのはブルーベリージャムのあの色味で、それを私を見つめながら舐めて欲しい、または舐めさせて欲しいなどと考えてしまう。彼女が指で瓶の中からブルーベリージャムをいやらしく掻き出し、それを妖しく口に運び、ねっとりと舐め回す。すっかり彼女の虜となっている私の男としての情欲は淫らな想像を膨らませるばかりで、そんな破廉恥な自分に羞恥と呆れを感じながらも、どうにもおさまらない。
それから数日経った朝、テーブルにつき、皿の上の目玉焼きをフォークでつついていると、妻が不安げに私を見ているのに気づいた。
「ねえ、あなた。ここ最近ずっと、夜になると部屋に篭っているけれど、連載でも受けたの?忙しそうだけれど、あまりこん詰めないほうがいいんじゃないかしら?毎食きちんと食べさせているつもりなのよ。なのにあなた、みるみる痩せ細っていくじゃない。心配だわ」
私は、妻に心配されるほど痩せているなど思いもしなかったので「少し忙しいかな。でも、いたって元気さ」とその場は濁したが、食後に洗面台へ行きじっくり鏡を見ると、確かに鏡の中には頬がこけてやつれた男がいた。
正直なところ、締め切りまでもう1ヶ月しかない小説の方は彼女に出会ってからほとんど手につかなくなっていた。いっそのこと、窓に映る彼女のことを書いてしまおうかとも考えたのだが、彼女を私だけの秘密にしたい気持ちが芽生えてから、書くに至っていない。今は、ノートに書き留めていた別のアイデアから話を再構築しようと試みているが、なかなか上手くいかないのだ。なにせ夜になれば彼女と会うことができる。会えてしまう。毎晩彼女から目が離せず、どうしようもなくなる私がいた。
私は顔を洗い着替えを済ますと、彼女に食べさせるためのブルーベリージャムを買いに近所のスーパーへ出かけた。ジャムが陳列される棚を探し、その中から少し値の張るブルーベリージャムを手に取り、レジへ持っていった。すると、店員がそのジャム瓶をレジ袋に入れながら笑顔で「お客さん、何か良いことでもあったんですか?」と話しかけてきたので「何故です?」と尋ねると「とても嬉しそうな顔をされているので」と言う。私は咄嗟に顔に手をやると、口角が無意識のうちに上がっていることに気づいた。仕方なく、私はそのまま、笑顔を取り繕い続けながら勘定を済ませ、ジャム瓶の入ったレジ袋を受け取った。しばらくして冷静になった途端、とてつもない羞恥が込み上げ、私は逃げるようにその場を後にした。
家に帰ると、妻に見つからないように自室に戻り、袋からジャム瓶を取り出した。これを窓の彼女に舐めてもらうことなど叶うはずが無いのだろうが、私には考えがあった。それを試してみようと決心した。
夜になり、夕食後に風呂を済ませてからいつも通りに自室に戻る。そして、机の引き出しから今朝買ったジャム瓶を取り出すと、窓に近寄った。そこには既に彼女がいた。暗闇に浮かぶように佇むモノトーンの彼女は、一段と美しく妖艶であった。私は期待を込めながら、ジャムを窓に、いや、彼女に塗った。彼女の下唇を撫でるようにして、ブルーベリーの小さな果肉も一緒に親指でそっと塗った。彼女は私には一向に気づかないが、唇に塗られた甘いブルーベリージャムには興味を示した。どこか遠くを見ていた目が伏し目になり、唇に細く白い指を持っていく。私はその指にもブルーベリージャムを塗った。彼女の手を握り締めるようにして大胆に塗りつけた。
彼女は無垢な顔をしてブルーベリージャムを舐めていった。下唇を舌でペロリと舐めると、顔をほころばせ、指も次々にペロリペロリと舐めていく。その表情は、ブルーベリージャムを舐める度にまるで遊女のような淫らなものに変わっていく。私はその様を見てこれまでにない悦びを感じ、たまらず生唾を飲んだ。すると、彼女がこちらをじっと見つめた。私は初めて彼女と目が合ったのだ。その目は遠くをぼんやりと見ていた時よりも随分と意地悪な目をしている。彼女は周知しているかのように私を見つめながら自分の指を舐め続け、どこまでも誘惑するのだ。
私は欲望のままに、窓に顔を近づけた。そして、そっと彼女の指を舐めた。舌に伝わる甘美な冷たさ。それが彼女の体温ならば、私は彼女を抱きしめる必要があった。私が彼女の身体に腕を伸ばすと、彼女は応じるかのように私を抱き寄せた。彼女の唇や乳房の柔らかさが押し寄せてきて、ジャムの甘さの残る舌が絡んでくる度に、私は深く深く彼女に溺れていく。
そうして快楽に酔いしれていると後ろから小さな悲鳴が聞こえた。驚いて振り返ると、そこには愕然とする妻が立っていた。
「あなた……何をしているの……」
妻の声で我にかえった私は、自分の姿に言葉が出なかった。何故なら、真っ裸になっていて、身体のあちこちにブルーベリージャムがついていたからだ。私は慌てて窓を見たが、そこにはもう彼女の姿はなかった。そのかわり、ブルーベリージャムでべとついた窓の中心に小さな手と唇の跡があった。——やはり私には彼女しかいない。離れられるわけがないのだ。
私は妻など気にせず窓に残る彼女の痕跡に口付けた。窓が微かに震えた。
ANTHOLOGY B 参加作品『窓』を改稿したものです。