個別の日本人には優秀な人が結構多いのに日本社会全体ではなぜ世界で負け続けているのかについて(=IQ105問題)のメモ
■ IQ105問題
橘玲氏の本によると、日本人のIQの平均は世界の平均よりもちょっと高めで 、世界水準のIQ105くらいなのだそうだ。
それが本当であるとしてだが──それなのに日本人は相対的に自分達より平均IQの低いはずの他の国々に対して経済競争で負け続けている。これはなぜなのだろうか。
その答えは、世界基準でIQ105くらいの「小さな優秀さ」を集団の構成員の多くが備えていて、その優秀さを集団全体のためでなく自分のためだけに行使した場合、それはその集団にとってめちゃくちゃ大きなブレーキになるのではないだろうか、と言うことだ。
「この社会の中で他人がどうなろうが自分(もしくは自分達)さえよければ良い」という考え方でIQ105くらいの「小さな優秀さ」を発揮する個人が集団内に大勢いると、全体を良くしようとしている他のメンバの足を引っ張り、その効果を打ち消す方向に働いてしまう。例えば、特定の集団の既得権益を守るためにその「優秀さ」を発揮してしまうなど。
時代の変化に合わせて社会全体を変えていかないといけないような場合、これは大きな阻害要因になる。全体の視点から日本をよくしようとしている人たちが仮にいたとしても、自分さえよければよい人々が大勢いることによって足を引っ張られてしまう。しかも彼らはいちいちIQ105の知能を駆使して邪魔してくるのでやっかいだ。日本という集団全体での競争力が他国に比べ著しく下がってしまう原因(少なくともその一つ)はこれなのではないだろうか。
別の観方をすれば、国全体での利益と所属する個人(ないしその集団)の利益が相反してしまっているとも言える。そういう構造になってしまっている。
日本の社会や組織運営の随所にみられるこの問題、IQ105くらいの小さな優秀さを個人が自分の利益のためだけに使ってしまうことによって集団全体のパフォーマンスが著しく下がる問題を「IQ105問題」と名付けたらどうだろうか。名付けたからどうなるというものでもないが…
日本人の各個人が平均的に優秀であることは、高度成長期のような、みんなが一丸となって同じ方向へ向かうような時代には非常に有効に作用した。ところがバブル崩壊後に日本全体が方向感を失い、各自がてんでばらばらに自分が良いと思う行動を取るようになると、その個々の優秀さが全体に大ダメージを与える結果になった。このような構造的問題があるように思う。
■ IQ105の問題点
IQ105くらいの賢さの問題点は、その発想が近視眼的で、大きな視点でとらえたときには問題があるような選択をしてしまうことだ。
例えば経営者の場合、社員を1秒でも長く働かせようという発想になる。それは工場管理者の発想で、今の時代の最適解ではない。今の仕事は長時間働けば良いアウトプットになるとは限らない。早く帰宅させ(または遅い出社を許容し)睡眠時間を十分に取らせれば効率も良くなり、仕事のクオリティも上がり新しい発想が生まれる。だがIQ105の人物はそういう認識にはいたらない。その結果、今まで9時出社だったのを会社の売上が悪いから8時50分出社にしようとか、そういう愚策を採用してしまい、ただでさえ日本人全体が世界で最も睡眠時間が短くて効率的に働けていない問題を助長する結果となる。
実際、出社時間は全国的に10時にして10時ー5時で勤務にした方がよいのではないだろうか?と思うのだが、IQ105の近視眼的な「賢さ」が、それを許容しないのである。1時間分も損するじゃないか!と…